今は昔、陸奥の国に
□刹那の虚弱
5ページ/19ページ
「だから呉服屋の旦那がカンカンに怒っちまいましてねー」
『そんなことしては怒るのも当たり前です。私の主の腹心の方はですね…』
現在、二人はまるで恋仲の男女のようにくっついて、細い通りを歩いていた。先程までいた甘味処に接する通りよりは人が少なくなったせいか、ようやくその不審人物の気配が分かるようになってきた。
レティーツィアは視界に入ってさえいれば、ルフを認識して隠れているものを見つけることが出来る。しかし逆に言えば全てはルフからの情報なので、今回のように視界に居ない手練れを相手する時は、武人としての勘を頼りにするしかないのだ。
そんなレティーツィアでも、得られる情報はある。二人は通常の声量で話しているが、相手はしっかり聞こえているらしい。何故ならレティーツィアが“主”の存在を匂わせた辺りから、歩調が早くなっているからだ。
つまり耳の良い人物。婆娑羅者か忍だろう。少なくともレティーツィアが紫蘭と名乗る女だと言うこと、どんな立場にいる女なのかを知った上での行動なのは間違いないのだ。
『(蔵人殿、あの角を曲がったら仕掛けますよ)』
読唇術で読み取った蔵人が、見つめあっていた時間を誤魔化すためにニコリ、と微笑んだ。良い雰囲気に見えるのだろう。…………恋愛のことは、全く分からないが。
『(4…3…2…1…隠者の水膜!(シャラール・マグド!)』
水と光を操り、光の反射の要領でレティーツィアと蔵人の姿を消す。蔵人は自らの身体が見えなくなったことに驚愕していたが、そこはさすが歴戦の忍。すぐに落ち着いてクナイを構えた。レティーツィアも簪を頭上から引き抜く。
この角を曲がって、驚いた反応をした奴が標的だ。
「……ッ!?」
『………!! 蔵人!!』
「はっ!!」
求めた反応と全く同じ反応をした人物。反抗するまでもなく、見えないままの蔵人に捕らわれる。
「!!?…な、」
すかさずレティーツィアも命魔法の植物で手足を拘束する。地面から生えた丈夫な蔦を振り抜ける訳もなく、その人物は身動きが取れなくなった。そこで、ようやく“隠者の水膜”を解く。
『ふぅ…協力ありがとう蔵人』
「いえ、これが私の仕事ですので。敬称も外れて嬉しいですよ、紫蘭様」
笑い合った二人をジッと見ているのが、今回捕らえた男だ。町人の服装に扮してはいるが、露出する腕や脚は明らかに武人のもの。黒く艶々とした髪は、顎下で切り揃えられていた。
『(……誰かに似ている…?)』
捕らえられたというのに、少し驚いた反応の後は無反応、無抵抗。不気味なほど静かにしている姿が、誰かと重なった。
あちこちを行き来していた瞳がカチリ、と合う。レティーツィアは無意識に息を飲んだ。
無気力な眼だ。どこを見ているのか分からないほど濁っている黒瞳。虚ろにレティーツィアを見るそれはまさに、底無し沼と例えるのがふさわしい。
───「市の、せいなの…」
この世の全てを諦めている瞳。“あの時”の彼女………そう。
『(かつてのお市さんに似ているんだわ…)』
ただ者ではない。あの時のお市さんに似ているということは、“堕ちて”いるかもしれない…。レティーツィアがお腹に力を込めた時。
「紫蘭の天女と、お見受けする…」
『……はい。そう言われているのは私ですが……』
「何者だ。名を名乗れ」
蔵人が首に突きつけるクナイが、物騒な光を放った。しかしそんなことは全く気にしていないのか、青年は動じずに平坦な声を紡ぐ。
「織田軍、柴田勝家と申す者。あなたや伊達政宗と話したいと思い至り、尾張より来た」
(黒いルフが、ビイッと飛んだ)
.