「(あの人?)」
「(そ。あの人。毎日来てくれるんだが、それって普通じゃないよな…)」
洗面所で嬉しそうに花束を抱え、花瓶を洗い始める女性。小柄で可愛らしい。ミサトのアゴくらいの背丈だろう。年齢は分からない。
(リツコのお母さんより、ちょっと上?)
正反対ではある。リツコの母親はリツコの将来の姿って感じだ。美しく聡明、スラリとして白衣が似合う。どこから見ても隙のない、人目を惹く美女。
一方、こっそり二人が遠くから見ている女性は、整った顔立ちで、綺麗ではあるが、朗らかで優しそう。少しぽっちゃりとした体形だが、それも彼女に合っていた。
「(叔父さんのこ、恋人…だよね?)」
「(本人は片想いって言い張るけど、叔父さん、嬉しそうなんだよ。あの人が来ると)」
突っ込みにくいと加持は言う。叔父は上手く話せる状態ではないし、歳上の女性に、まだ高校生であり、甥でもある自分が深くは聞いたら相手も困るだろう。
「(悪い気分じゃないよ。叔父さんを好いてくれるのは)」
親の再婚相手に嫉妬する気分…って、ワケでもない。だいたいそんなトシでもないし。加持はそう言って話し続けた。
「(言ってくれても良かったと思うんだが…)」
叔父に恋人がいるなら大歓迎だ。でも、自分の事を最優先にしてたのなら申し訳ない…それが加持の思っている事。
「(あっ、戻ってく)」
花瓶を大切そうに持つと、女性は病室へ向かう。
「(とりあえず、叔父さんの顔見たいよ)」
お見舞いに来たからには当然だ。加持もそのつもりで呼んだ訳だ。ミサトは事故以来、会えなかった。それに、これではこそこそ観察しているみたいだ。
「(だな…行くか)」
『この前電話で言ってた話って何?』
『…女の人がさ』
加持も良く分かっていない。彼女が何者なのか。病院へ着くまでの間、簡潔に説明した。
『ふぅん。意外だね…』
『だろ。そんな素振りなかったし』
一緒に暮らしている加持がそう思うのなら、ミサトから見てもそうだろう。
『でも、見てみたいかも』
こういう所はミサトも普通の高校生だな、と加持は思った。色恋沙汰には縁がなさそうだが、身近な人のその手の話には乗ってくる。縁がない女の子の方が、その傾向は強い(失礼だが)
『ねえねえ、どんな人?』
(思った以上に食い付くな)
バスの中で、加持の腕を引っ張り、話を聞きたがる。
『多分、今日も来てると思うから』
百聞は一見に…というし。それに、女の前で他の女を褒めるのは、経験上良くない。結構可愛らしいとか、感じが良い人。それが加持の率直な印象。
(コイツは何も感じないだろうな)
彼女を褒めても、ミサトは"そうなんだー"とかなんとか言って、ニコニコするだけだろう。まるっきり、オトコとして見られていないのを再確認させられる。それは意外と加持にダメージを与える。
(ん?俺もだいぶ普通じゃん)
今の状況に慣れてきたとは思っていたが、思っていたより余裕が出てきたらしい。女の子…ミサトにとって、自分はどういう存在なのか。そんなコトを考えられるようになっていた。
『どしたの?』
『なんでもない』
無邪気に自分の腕を掴むミサトを見て、加持は複雑な気分になった。
「叔父さん、来たぜ」
「こんにちはー。お久しぶりです」
(…思ったより元気そう)
良かった…体は起こせないが、表情はしっかりしている。自分の顔を見て、嬉しく思ってくれているのが、目で分かる。ミサトは一先ず安心した。先程の女性はにこにこして立っている。加持は頭を軽く下げて挨拶をした。
「ごめんなさい。また図々しくお邪魔して…」
「いえいえ。叔父も喜んでいますし。正直助かりますよ」
先程、こそこそ覗いていたから、何となく申し訳なく加持は思う。彼女の視線は当然、初めて会うミサトにいく。
「はじめまして。葛城さん…本当に可愛らしいわ。素敵なお嬢さんね」
紹介しようとした加持は気が抜ける。女性の話し方から察すると、ミサトの事を知っているようだ。ミサトもやはり、驚いた様子。
「は、はじめまして。あの、ええと、葛城ミサトです」
しどろもどろしているミサト。加持も不思議に思う。
「葛城の事、知っているんですか?」
「ご、ごめんなさい。会うのは勿論、初めてよ。この人から良く話を聞いていて」
叔父はミサトの事まで、女性に話していた。それに咄嗟に出た"この人"っていう言葉。いつもは"加持さん"と呼んでいたのに。
(…深い仲じゃん。間違いなく)
ふと、ミサトを見ると何故か耳まで赤くなっている。
「ごめんなさいね、席を外しますねっ」
「いえ…」
お気遣いなく…と、言う間もなく女性は病室から出ていく。
(一体、何回"ごめんなさい"って言うんだか)
彼女の口癖みたいなモンだ。余程、加持に気を遣っているのだろう。なにせ、恋人の甥という微妙な関係だから。そういった人間には、やたら弱くなる…ヒトは。
「叔父さん。あのね、加持君に今日誘ってもらえて嬉しかったの。会えて良かったよ」
前と同じように、ミサトは叔父に話をしていた。傍目から見たら一方的にミサトが話をしているだけだ。だけれど、叔父の表情は柔らかくなっていく。
(伝わっているんだ。ちゃんと)
ミサトは、叔父が思っている事が分かるように、会話が成立している…そんな風に思える。自分も何となく分かるが、ミサトの方が彼と通じ合っているように見えた。
(…同じ経験をしたからか?)
ミサトも傷を負った時、叔父と同じか、それ以上に酷い状態だったのか…それは分からない。第一、本人すら覚えていない。
(俺は叔父の事もコイツの事も、分かってないんだな…)
知りたいと思う。もっと葛城ミサトという人間を。完全に理解し合うのは不可能だ。それはヒトだから仕方がない。不可能だから知りたくなるモノ。それも人間だ。言っている事が矛盾しているようだが、加持はそう考えている。
(同級生は面倒だ…か)
そう思っていたのに。そんな事を考えていた事すら、忘れていた。
――大切にしろ
あの時、叔父に言われた事を思い出す。なにか深い意味があるんじゃないか?叔父とミサトを見ていると、急にそんな考えが加持の頭に浮かんだ。
「話せて良かった」
帰りのバスを待つ。時間に合わせて来たから、すぐに乗れる。
「ありがとな。わざわざ」
「楽しかっ…あわわ、し、失礼だね。ごめん…」
マズイ事言っちゃった…そんな感じで、ミサトは口を塞ぐ。確かに見舞いに来て、楽しかったは不適切だ。でも、加持も楽しかった。正確に言うと、叔父が嬉しそうにしていたから。
「謝るコトないって。なんか、叔父さん良くなる気がしてきた」
バスが来る。ここは終点だ。Uターンして駅まで戻る。車社会だから、乗客は少ない。大きな病院だから、さすがにガラガラではないが。二人は一番後の座席にすわった。行先も終点だから、結構時間はかかる。
「私もそう思う…軽々しく言っちゃいけないけど、加持君がそう思うなら、大丈夫よね」
窓の外を見ながらミサトは言う。初めて見る風景が目に入ってくる。何もない田舎から、松代に近付くにつれ、賑やかになってくる。加持は何往復もしているから見慣れていた。
「あの女の人、名前なんて言うの?」
彼女は帰って来なかった。多分、まだ病院にはいると思うが、捜す時間がなかったから、先に帰ることにした。このバスを逃すと次は一時間後。挨拶しないのは、それこそ失礼だが、仕方がない。
「最初はさ、教えてくれなかったんだ"おばさん"で良いって」
「…名前を隠してたの?」
「珍しくもないけどな。色々あるから、大抵」
あの大事件以来、悲しく辛い過去を背負う人も多い。名前を棄て、過去を断ち切ろうとするのが、一時期流行った。だから深くは追求しない。それが暗黙の了解だ。
「…そうだね」
ミサトも多少は事情を知っているようだ。
「ユイ」
「ん?」
「そう呼んでね…って」
そう言った時の彼女の表情も口調も切なそうだった。
「女性に対して"おばさん"って呼ぶの、抵抗があるんだよ、俺。ちょっと強引に聞いちゃったかもな」
(…さすが、女性の気持は分かってるのねぇ)
加持も色々な噂が絶えない男だ。酷い話もミサトの耳に入ってきた。
(そんな風には思わないけど)
少なくとも、ミサトは加持を悪く思わない。理由は単純。一緒にいてラクだし、楽しい。
「ユイさんかぁ…」
「120%偽名だろうけど」
不思議な魅力がある人。特別目立つタイプではない、至って普通の可愛らしい人。だけど、初対面で彼女に悪い印象を持つ人間は少ないとミサトは思う。
(ほんわかした、お母さんって感じだからかな…)
「ところでさ、おまえ耳まで真っ赤だったぜ。なんで?」
ミサトは言いにくそうに、まごまごしている。スカートを掴んでうつむく。
「え…えとね、か、可愛らしいとか言われ慣れてないって言うか…は、初めて言われたからさ」
お世辞なのは分かってるけど…と、小声でブツブツ言っている。大人の女性が高校生の女の子に対して、挨拶代わりに使うモノだろう。それでも、ミサトは照れくさい。
「…俺も思うけど」
ミサトが顔を上げて隣の加持をじっと見つめる。気のせいか、彼も顔が赤い。
「可愛いじゃん。葛城」
暫く目を見開き、加持を見つめ続けていた。その視線が冷やかになっていく。
「バカにしてる、また…」
「へ?んなコトな…」
「あんっな、綺麗な人と付き合ってたくせに」
(…分かってねえなぁ)
加持は説明する気にもなれない。たまたま前の彼女が綺麗だったってダケ。だからと言って、それが基準になるワケではない。確かに見たくれが良い方が、声はかけられやすい。簡単に言うとモテる。
だが、そこから先はそんな事は関係なくなる。一言で説明するのは困難だし、16の女の子に分かれと言うのも無理だ。加持も分かっているのはただ一つ。惚れるのに理由はない…それだけだ。
「おまえ、本当にバカだな」
ミサトはムッとした。言われなくても分かっている。
「今更わざわざ言われなくても自覚してますけど」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、なによ?」
…そう返されると困る。ミサトは云わば同志であり、大切な人。それが最前提だ。今の時点で、彼女とどうこうなりたい…とは思わないようにしていた。そういう目で見ないように、考えないように。他にやるべき事は沢山ある。
それに、加持は居心地が良かった…ミサトとの関係が。
(しかし、少しは気にしてもらわないとな…)
「悪かったって」
考え事をしているうちに、終点の駅に着いていた。ふと、ミサトを見ると明かに不機嫌だった。彼女はずっと外を見ていたから、加持は気付かなかった。
「機嫌直せよ、な?」
「バカバカ言われてゴキゲンになれるワケないでしょ」
「一回しか言ってないぜ。バカって…」
ミサトの表情がますます険しくなり、加持は黙る。
(…コイツが怒ったの初めてだよな?)
内心、加持は嬉しく思う。いつも無理してた…って感じではないが、怒りを露にするとは、相手に気を許している事。良い方に取ると。
「なに笑ってんのよ」
顔に出ていたらしい。気付かなかった。これもまた、加持も素の自分でいられるって事。
「ホントごめんって…メシ奢るから許せ、な?」
前をずんずん歩いていたミサトの歩調が遅くなる。腹は減っているハズだ。畳み掛けるのは今だ。
「アイスも付ける」
ピタッと、ミサトは止まる。やはり、食べ物に弱い。女の子は…特にミサトは。
「良いの?」
目を輝かせて振り向くミサト。
(単純なヤツ…)
「美味しかったー。ごちそうさまー」
前に行ったラーメン屋へ行った。ミサトのリクエスト。彼女の機嫌は戻ったようだ。
「何にする?」
「アイスは私が奢るよ」
「いーよ。俺が言い出したんだし」
加持が制する間も与えず、ミサトは財布を出して注文する。ここは奢ってもらおう。また機嫌を損ねるのも悪い。加持はそう思った。
「じゃ、ラムレーズン」
電車を待ちながら椅子に座ってアイスを食べる。丁度良い。食べ終わる頃に来るだろう。
「美味しいね。止まんない。やっぱトリプルにすれば良かったな」
ハッとしたように、いきなり加持の方にミサトは視線を向けた。
「…今、食べ物につられるバカって思ったでしょ」
「思ってない。思ってない…ホント」
また、視線が冷やかになる。だが、さっきのとは違う。本気で怒っているのではない。それくらいは加持にも分かる。と言うより、ミサトは分かりやすい。
「あれ?なんでバカって言われたんだっけ?」
真剣に思い出そうとしているミサト。
(そういや、何だっけ…)
自分が可愛い…とか何とか言って、からかわれていると感じたのが発端だった。加持はすぐに思い出す。
「葛城、好きなヤツいるのか?」
ナイとは思うが、加持は一応聞いてみた。いたら結構ショックだ。
「な、なに?いきなり…」
「そんな慌てんなよ。いてもおかしくはないだろ」
「…そういうの考えた事ない。学校じゃ異端児だしね。それに…」
反対側の電車が通り過ぎていくのをミサトはぼんやり見ながら続ける。
「自分が何者かさえ分かんないし」
電車が通り過ぎても、同じ所を見続けながら、ミサトは話し続ける。
「凄い悪い事したから、忘れてるのかって考えると怖くなるんだよね…」
人を殺したとか、そこまでいかなくても、未遂で終わったとか、そういう過去があるかもしれない…割と本気でそう思う時がある。ミサトはそう告げた。
「そりゃ、考え過ぎだ」
「だって、この傷は…普通じゃないよね…」
誰かに攻撃されて、逆襲した結果、ミサトが相手を殺した…そんな事を考えているみたいだ。
「普通に考えりゃ、事故だろ。その傷」
"あの"大事件…それで負った負傷だと加持は思っていた。でも、それを言うのは何となく躊躇う…核心に触れそうで。ミサトの過去に。
「それに億万が一、そうだとしても正当防衛だ」
電車が来た。ミサトは黙ったまま乗り込む。席は空いていたけれど、ドアの側に立っていた。
「気にすんなよ。過去なんてどうでもいい」
「…そっかな」
納得がいかない表情のミサト。自分の記憶がないという経験は、本人しか分かんない葛藤の繰り返しだ…多分。当然、加持には分かる筈もない。
「関係ないし。おまえが何者でも」
「はは…ありがと。ゴメンね、変な話振って」
まだ、元気がなさそうだ。下手に励ますのは良くない…これ以上はミサト自身の問題…他人が何を言っても無駄だ。薄っぺらい、表面だけの慰めに聞こえるだろう。
(しかし、そんな風に思っていたとはな)
そこまで考えているとは、加持も考えなかった。
「家まで送る」
「え?いいよ。近いし」
「俺がそうしたいからする」
(…気を遣ってくれてるのかな)
今まで漠然と考えていた事を話したら、少しラクになった…気がする。"加持が"考え過ぎと言うなら、確かにそうかな…と思える。
(なんでだろ?)
駅から近いというのは、この場合、加持にとっては不利だった。あっという間に家に着くから。
「ありがと。明日も学校来るよね?」
「ああ。そのつもり…」
安心したように、ミサトは頷く。
「あのさ、葛城」
「ん?」
「もう一度言っとくが、おまえが何処の誰で何をしてたとしても関係ない…俺にはな」
ミサトは立ち止まる。同じような事をまた言われると、心に響く。それに"俺には"という言葉が、妙に耳に残る。
「加持…?」
自分に近付いてくる加持。肩に手が触れて、思わずビクッとする。割と唐突な行動には慣れているが、何故かそうなる。
「空けとけ」
「…は?」
何の事だか、さっぱり見当がつかない。ミサトは加持の言葉を待つしかない。
「おまえの隣」
「…隣?」
空いてるじゃない…という感じで、ミサトは左右を見回す。大体、電車でも歩く時でも、友人なら普通は隣にいる。加持じゃなくても。
(…ん?)
そう言えば、加持以外が隣にいる事自体、なかったかもしれない。学校ではリツコがいるけれど。加持といる時間が徐々に長くなっていた。最近は、事情が事情だったから、少なくなってはいた。けれど、他の誰より、加持が横にいる事が多い。それが自然で、あまりにも当たり前になりつつあったから、ミサトは近くにいる加持の事を、考えなかった。
「葛城の彼氏の席。そこ、俺の予約」
(…何言ってんの、いきなり)
言葉にしたつもりだったのに、声になっていなかったらしい。加持の顔は、真剣なんだかふざけてるんだか、イマイチ判断ができない。笑いながら言っているし。
「嫌い…じゃないよな?」
「も、もちろん。なら、今だって一緒にいないよ」
肩に充てられた手が熱い。そこだけが異様に熱を帯びている。
「いつまでも待つから。他のヤツに惚れたなら諦めるが…」
肩だけじゃない。顔も熱くなる。
「いや、ナシだ。それも」
もう片方の手はミサトの手を握る。今度は手が熱い…というより、全身が熱くてたまらなくなる。
「もう面倒だから、俺を好きになれ。それまで待ってるぜ」
そう言うと加持の手が肩からも、手からも離される。急激に熱が引いていく…顔以外は。
「じゃ、明日な」
「あ、う、うん」
それだけ言うと、満足したように加持は走り出した。ミサトは呆然と小さくなっていく後ろ姿を見ていた。
「忘れんなよ」
一度だけ振り返った加持は、そう言って、手を振った。