「武道訓練、ですか?」
週末になり、いつものように新東京へ来た。いきなりこんな話をされて、本当に何を考えているのか、全く分からない人だとミサトは思う。
「嫌いではないだろう?」
土日の二時間、武道訓練を受けろ…"あの人"にそう命令された。変な検査を受け続けるよりは、余程楽しい。ミサトは少しだけ、憂鬱な週末が楽しくなってきた。
「わぁー…」
結構、本格化な武道場に連れて来られ、ミサトはますます嬉しくなってきた。胴着姿の大人が十数名、汗を流していた。指導員らしき男性は、かなり良い体だ。何十年も稽古を重ね続けて出来上がった体。
「大人の人ばかり…ここの社員さんですか?」
「…色々だ」
(相変わらず、はっきり言わないなぁ)
悪くない雰囲気。早く加わりたい…そう思える。それに、何か聞ける可能性も高まる。一緒に訓練していれば。ここまで来る間に、誰かに出くわしたり、何か見付けたりできるかも…ミサトは先に進める道が開ける…そう感じた。
(ホント、何でもあるんだな。ここ)
周辺は工事だらけなのに、この中だけで一つの街みたいだ。ミサトが行ける場所は限られているが、そんな中でも道場まであるとは…ヘンな話だ。
(よしっ、リツコのためにも頑張って探っちゃおう)
「って、事になったの」
「武道ね…あなたの事を少しは考えているのかしら。悪い話じゃなさそうね」
リツコも体育の授業はなかなか上手くこなす。細身だが、なかなか良い筋肉が付いている。全ての教科において万全にするのが、彼女だ。それに、女子は少ないから体育はラクな教科だ。
「でも、なんだか不思議ね」
「なんで?」
「…相手は、徐々にあなたの記憶を覚まそうとしている。そう考えて良いのかしら」
(なるほど。そうかも…気付かなかった)
「やっている事が矛盾しているようにも感じるわね…」
記憶を封じ込めたいのか、思い出させようとしているのか、どちらなのか彼等のミサトに対する姿勢が見えないと、リツコは言う。
「言われてみるとそうだよね…」
「何か進展はありそう?」
「今のトコは…」
リツコを落胆させるのも悪いが、稽古中は私語は禁止だ。それに、終わると皆、さっさと挨拶だけで帰ってしまう。子供の相手なんてしてるヒマはない。そんな感じ。
「でも、行動範囲は広がったしね。すこーし、探ってみるよ」
「くれぐれも気をつけてね」
任せて…といった感じで、ミサトは拳をグッと握る。残念ながらリツコには頼もしく見えない。でも、自分に逐一報告してくれる事は嬉しく思う。
(…最近元気が良いわね)
リツコはミサトを信用はしている。話すのも嫌ではない。
周囲から敬遠されていたリツコは、本音を話す程の友人はいなかった。仲間というか、一緒にいて苦痛ではない位の友人はいたが。ミサトといる時間は嫌ではないし、話していて退屈はしない。自分に興味がない話題でも、鬱陶しいとは思わない。
(そういう人間を本当の意味で友人と言うのかしら…)
「葛城、帰ろうぜ」
「あ、加持君。うん」
「"君"いらないって」
今までと全く変わらず加持はミサトに接する。ただ、学校が終わると必ず声をかけられ、一緒に下校するのが当たり前になっていた。
あの日の事がなかったかのようだ。本気だったのかどうか、分からなくなってくるが、時々思い出したように"忘れんなよ"と念を押されて、やはり本当に言われたんだな…とミサトは思い出す。
「改装進んでる?」
「ああ。ユイさんがいてくれて正直助かるわ」
車椅子で生活する叔父に不便にならないように、家は改装中だ。いつでも退院して来れるように。
国や自治体の補助制度やら、警察や事故相手との話。未成年にはできないから、弁護士に仲介してもらう。これも無料で雇えるとは知らなかった。
工事業者の手配や現場の人への世話等、全部ユイがやっている。
「ここまで頼っちゃって良いのかって思ったけど、なんか断れないんだよな」
ユイがいなければ、加持は学校に通えなかっただろう。叔父も前より回復し、質問に対して頷く程度ならできる。彼もユイを信頼しているようだ。迷ったが、彼女を頼る事にした。
「何より、本人が楽しそうだしな…」
おっとりしているように見えて、色々詳しかった。大人だから当然…という範疇を超えている。ユイは、法律か福祉関係の仕事をしていたように思える。聞きはしないが。余計な詮索をしないのが、今の世の中の暗黙の了解だ。
「おまえはどうなの?」
「リツコにも言ったけど、少しは行動範囲が広がったからね。これから何か見えてくるかも」
ミサトの動きは相当の武道経験があるのは明らかだ。
「武道って滅茶苦茶沢山あるよな。詳しくは知らないが。どんなやつ?」
「うーん…合気道と空手と柔道を全部取り入れた感じかな?」
「…なんだそれ」
投げ技、掴み、顔面攻撃。なんでもアリ。時には、護身用の武器も使うとミサトは説明する。
「怖いっつーか、そんな道場あるのか。聞いた事ねえな」
加持も男なので、多少はそういった物に関心はある。
「その分、作法には厳しいよ…」
精神を鍛練して、身心共に強く、人に優しく自分に厳しく…云々と、先生に繰り返し言われる。そして、知性と品位を身につけてこそ、本当の強さだと。
「まあ、傷だけじゃなくて、アザも増えたケド。楽しいよ…知性は無理だけど」
呑気にしている場合でもない。もうすぐ一年生が終わり、春休みに入る。その前に期末テストが待っていた。
「俺も学校休み多かったから、あんま自信ないな」
成績を下げる訳にはいかない。叔父に失礼だ…加持は常にそれを念頭に入れている。
「今回はヤマ張るか。出そうな箇所まとめたら教えてやるよ」
「本当?ありがと」
ミサトも学校に通わせてもらっている立場だ。成績について言われた事はないが、さすがに今のままではマズイとは一応、考えてはいた。
(…でも、言わないのも不思議よね)
"あの人"はミサトの成績には全く興味がないようだ。普通はもっと勉強しろ…って言われると思う。
加持にそれについて聞こうとしたが、ミサトはなんとなく躊躇い、止めておいた。
「上手く進んでいるな」
「嗅ぎ回させるのも作戦…全く予想通りの行動をしてくれること。良いコね」
密室で男とリツコの母、ナオコが愉快この上ない…といった様子で会話をしている。
「ウチの娘は疑問に思われないのは当然だけど、あのミサトちゃんはどう思われるのかしらね」
「それこそ、彼女達が本格的に探りだすだろう。それもまた一興だ」
「それと、加持リョウジ。彼は予想外だ…良い意味で」
「あのコは決まってはいたけれど、大丈夫そうね」
ナオコが言うと、男も頷く。
「有望だな。色々な意味で。使えそうだ」
後、何人か目星はつけてある…そう言いながら男がパソコンを開くと、ナオコもそれを見る。
「適当で良いんじゃないかしら。三人以外は」
「我々の将来が懸かっている。有能な人間は全て手に入れておくべきだ」
(使える人間の間違いでしょ。文句を言わず、逆らう事ができずに、縛りつけていられる人間を、ね)
(…今日も誰とも話せなかったな)
稽古が終わり、とぼとぼ長い廊下を歩く。なんにも収穫はないし、テストも近いし、何より疲れた。終わったらそのまま帰って良いと言われているだけマシだ。ミサトは更衣室に向かう。
(…痛っ)
いくらミサトが強くても、先生には全く敵わない。他の男性は大人ではあるが、初心者っぽい人間が大半だ。本気で組手をできるのは先生だけだ。彼もミサトには最小限の、ギリギリ堪えられる強さでかかってくる。
(結構もらっちゃったな…)
本気を出されたら怪我じゃすまないだろう。でも、それだけ自分も強くなれる。それに、日常生活を全て忘れ集中できる。やはり稽古は楽しい。
「…あなた、誰?」
いきなり声がして、ミサトは文字通り飛び上がる。まるっきり、気配がしなかった。静かな廊下なのに。恐る恐る振り返ると、小さな女の子が立っていた。
「誰?」
こっちこそ聞きたい…ミサトは一種の恐怖すら感じた。登場の仕方もそうだし、この建物に少女は不似合いだ。
「葛城ミサト…だけども」
子供の扱いが分からない。周りにいないからだ。動揺のあまり、普通に名乗ってしまう。
「"カツラギミサト"」
五歳かそれくらい?コミュニケーションは取れる年齢だとは思う。所謂赤ちゃん言葉ではなく、しっかりとした口調だ。
(何か聞けるかも…)
子供にコソコソ聞くのも良くはないかな。でも、子供は正直だし。
(正直って事は、私が何か聞いたって事も、正直に誰かに言うよね…)
「聞いたことあるなまえ」
ミサトがどうしようか悩んでいると、少女は口を開いた。無表情とは、この少女のためにある言葉じゃないだろうか。話す時に、口元が動くだけ。それも最小限に。
「だ、誰に聞いたのかな?」
少女は何故か、自分の名を知っているようだ。なら、これくらいは聞いても不自然じゃない…そう判断する。瞬きすらしないで、じーっとミサトを見続ける少女。また怖くなってくる。どのくらいの間、そうしていたのか分からない。怖いけど、視線を外す事ができない。
逸らしても、少女は無遠慮に見続けるだろう。そう思う。だったら、自分もその瞳が自分の何を探っているのか逆に探りたい。けれど、全く読めない。ミサトがニブイ訳ではないと思う。この少女が何を考えているのか、分かる人間がいたら会ってみたいとすら思う。
「…あなたは、会う。いつか」
「え?ちょ、ちょっと待って…」
全く会話が成立しないまま、少女は廊下の奥へ消えていった。
(…なんだったんだ、あの子)
「何かあった?」
「な、何も」
あの少女の事は話す気になれない。特にどうっていうコトでもない。小さい女の子と会った…それだけ。不思議な少女だった。正直、ミサトには上手く説明する自信がない。
(ワケ分からないコト、言っていたような…?)
気が動転していたので、少女が何を言っていたのかは、覚えていない。一つだけはっきりしているのは、あの子は自分の名前を聞いた事があると言っていた。
(わりと珍しい名字だし、印象に残ったのかな…でも、子供ってそんなの知ってるのかなあ)
放課後、加持がわざわざテスト(のヤマ)を教えてくれている。早く病院へ行きたいだろうに。今は集中しよう…ミサトは教科書に線を引き始める。
(わかりやすく何かあったな)
話したくなったら話すだろう。加持は追求するのは止めておく。
「マルが付いてる所は公式を理解しろ。数字を入れ替えて出るだけだ」
「…分かった」
それが数学の難しい所なんだけど…確かにそれしか勉強方法はない。
「線を引いてある所は暗記。そのまんま出すから。あの先生」
「オーケイ」
なんとかなりそうな気がしてきた。範囲が限られていれば、頭に叩き込めば良い。試験が終われば、忘れてしまうだろうけれど。その場凌ぎにはなる。
「ありがと。頑張るよ」
貴重な時間を裂いてくれているからには、多少なりとも成果をあげなければ…ミサトは少女の事は考えないようにした。第一、考えてもメリットはなさそうだ。
「ところで、春休み一日くらい空かない?」
「ん?毎日行かなきゃいけないって事もないと思うけど」
「俺もバイトあるけど、葛城に合わせるからどっか行こうぜ」
「なんで?」
「デートに誘ってるんだが。古典的な言い方すると」
やはり、加持は本気なのか?あの約束を良く考えてみると、告白をされた…と取れる。今更ながら、ミサトは聞いてみようかと一瞬考える。
(付き合ってって事は、自分を好きって意味なのかな…)
冗談だったとは思えないけれど、加持が自分を恋愛対象としているとはミサトには考えられない。全く彼の好みの女性とは異なるから。
(わっかんないよ…)
こういう話は苦手みたいだ。苦手と言うより、経験がない(と思う)から、どうして良いのか分からない。ミサトとしては。
「もしかして、もしかすると…だけど、か、加持君って私をす、好き、なの?」
率直に聞いてみた。なんだか図々しいような気もする。自分が男の子に好かれるとは思えないと、ミサトは考えていた。違っていたら滅茶苦茶恥ずかしい話だ。
「好きに決まってるだろ。じゃなきゃ、あんな事言わないよ、俺」
(…サラッと言うなあ)
ミサトとしては、尚更分からなくなる。あまりにも、当然って感じで言われると。
「先に言っとくが、友達として好きとか、葛城の人間性がって意味じゃないからな。それも含むが」
ミサトは更に困る。聞くべきではなかった。でも、デート云々言い出したのは加持が先。流れでこういう話題になるのは、不自然ではない。
「一人の女の子として、好きだからな」
人生初だ(たぶん)男の子に"好き"と言われたのは。しかも、相手は加持。あり得ないと思っていた…自分にこんな事がおこるとは。嬉しくなくはない。しかし、嬉しさより、戸惑いの方が大きい…ミサトには。
「気にすんなよ?俺が一方的に思ってるだけだ。思うのは勝手だろ」
本当になんでもない、世間話をしているように加持は言う。
「おっと。考え込むなよ?当分、このままで良いって思ってるからな」
当分という事は、いつかはこのままで良くなくなるという意味だと取れる。
「あの時言ったろ。おまえが俺を好きになるまで待つ」
「…ならなかったらどうすんの?」
言いながらミサトは後悔していた。今のはかなり酷い言葉だ。だが、加持は気にする風でもない。
「なるね。いや、なってもらう」
ここまで言われると、可笑しくなってくる。恐らく、ミサトが気を遣わないような言い方をしてくれているのだろう。
「おっと、そろそろ電車の時間来るな。帰ろ。で、さっきの返事は?」
デートがどうとか言っていたっけ…こんな流れになったのは、それが発端だった。ミサトはすっかり忘れていた。
「わ、分かった。分かった…です」
ミサトは間抜けな答えを出す。ここまで言われたからには、断るのも悪い…というより、加持といると楽しい。一緒にでかける誘いなら、断る理由はない。
「決まり。じゃ、約束な」
小指を差し出す加持。これもまた、随分古典的な仕草だ。でも、なんとなく可愛く見えてミサトも小指を絡めた。