試験の最終日。ミサトにとって嬉しい誘いがあった。リツコにお昼でも食べに行かないか…と言われた。みんなホッとした顔をしている。ピリピリした空気から解放され、浮き足立つ。その中の誰よりもミサトは浮かれていた。
「そ、そこまで喜ばなくても…」
「試験は終わったし、何よりリツコとご飯行けるんだもん」
小躍りでもしたくなる。リツコと外食するのは初めてだ。正確に言うと、加持以外に誘われたのは。
(あれ?やっぱ悲惨な学校生活かも…私)
女友達とでかける事もなく、一年生が終わろうとしていた。これは、自分が周りから避けられているのか?確かに女子は少ない。リツコ以外にクラスには後二人。
全く喋らない訳ではないが、自分には社交性が欠けているのではないか…ミサトは日頃からそう感じていた。
「あなたが変わっているんじゃないわよ。この学校が変わっているの」
リツコの家の近くのカフェ。小綺麗なお店だ。オムライスが評判との事で、二人共同じセットを注文した。
「どういうこと?」
「私だって、中学の時は友人と遊びに行く事だってあったわよ」
(へえ…そうなんだ)
リツコも普通に友人がいて、至って普通の中学生活を送っていたらしい。
「部活に入っていたし。半強制的だけど…内申書に響くから」
出されたサラダを食べ始める。アボカドと海老が乗っている、小さいサラダ。初めて食べたそれは、至福の味だ。
「おいっっっしいー!」
「でしょ?」
そう言ってリツコは笑う。学校での彼女と違う。完璧で無敵の優等生ではなく、友人と試験明けにランチを食べてはしゃぐ、普通の女子高生。ミサトは意外な一面を垣間見て、驚きと共に嬉しくなる。
「部活に入れば、繋がりもできるわ。目標が同じ人間が集まるからね」
共通の目標に向かって進むと、ヒトとヒトは仲良くなりやすい…心理学的にも認められている。リツコはそう説明した。
「なるほど。で、何やってたの?」
「水泳」
「へえー。だから、スタイル良いんだ。納得」
小さい頃から習わされていて、そのまま続けていただけよ…と、リツコは言う。
「他にも色々習い事やらされたわね。母に」
唯一、続けられたのが水泳だけ。他は母親に従って嫌々通っていた。落胆させるのが嫌だった。母親のために頑張ったが、物事には限界がある。リツコは中学入学まで続けるという、約束は果たした。
「一度会っただけだけど、綺麗なお母さんだよね。三十半ばくらい?」
「…あなた、私の年齢考えていないわね。四七になるわよ、母」
「え?」
リツコはミサトと同じ歳だから、言われてみればそうだけれど、とても見えない。
「すっごい若く見えるね。リツコは大人っぽいから姉妹みたい」
母親を誉められるのは、リツコも悪い気はしない。寧ろ誇らしい。変わってしまってもリツコは母親を慕っている…話をしていると伝わってくる。
「一体、どんな魅力があるのかしらね…あそこには」
それはミサトも疑問だ。どちらかと言うと、行きたくない。あんな場所。毎週末が憂鬱だ…慣れてしまったけど。
「ごめんなさいね。別にそれを聞きたくて誘った訳ではないから」
(ちょっと泣きそうかも…嬉しすぎ)
新東京の事を抜きで、リツコが自分を誘ってくれた。それだけで有頂天になる。もしかしたら、ミサトが考えていた以上にリツコは自分を友人だと思ってくれているのかな…。
「リツコ、私のこと友達だと思ってくれてる…のかな?」
「何言っているの、今更。思っていなければお弁当だって一緒に食べないわ」
(…そうなんだ)
「一人でいるのは苦痛ではないし、寧ろ好むわ。あなたといると一人より楽しいのよ」
なんだか照れる。いつもベッタリくっついていて、仲良く見えても、実はお互い寂しいから、独りになりたくないだけ…そういう理由で仕方なく徒党を組む人もいる。それは好まないと、リツコは話す。
「それに、普通の学校ならあなたは全く問題なく過ごせる筈よ」
「そ、そかな?」
加持もだけれど、リツコも相手の気持というか、考えている事を察するのに長けている。
「ところで、急に誘ってしまったけれど、加持君は良かったのかしら?」
「加持?リツコとでかけるから、今日は一緒に帰れないって言ってあるよ」
"へえ。珍しいじゃん。楽しんで来いよ"…そう言って、加持は笑っていた。春休みにデートとやらの約束をしている事は敢えてリツコに言う話でもないだろう。
「邪魔してしまって悪いかしら…と思ったけど」
「ジャマ?」
「そうね。加持君みたいなタイプは束縛しないわね。いるのよね、友人と遊ぶと不機嫌になる男も」
"友人"とは自分の事…ミサトはその言葉を聞く度、嬉しさが込み上げてくる。しかし、リツコの言い回しには違和感がある。自分の考えに満足し、一人で納得して話し続けている…そんな感じ。
「物わかりが良い彼氏で良いわね」
「…かれし?」
話の流れからすると、リツコの言う"彼氏"とは加持の事だ。これは訂正しなくてはならない。
「ちょ、ちょっと待って、リツコ…加持と私はそういうんじゃないんだけど」
「あら…そうなの?」
そんな風に見られていたのか。加持と自分は、客観的に見たらそう見えるモンなのか…ミサトは第三者から見た自分達がどう思われているか、考えた事すらなかった。しかも、リツコに思われていたとは。
「でも、彼はあなたの事をとても想っているわよね」
「想っている?」
「態度で分からないの?…まあ、当人は気付かないのよね。端から見れば丸分かりだけど」
「…どうしてそう思うの?」
苦手な話題ではあるが、この機会に聞いてみようとミサトは考える。リツコなら余計な事は言わないし、正直に言うと、かなり気になる。加持の自分に対しての態度とやらが。
「…上手く言葉で表現するのは難しいけれど」
ちょっとした仕草とか、目線とか、会話。そんな中に感じるモノだとリツコは言う。ミサトには、見当もつかない。
「そかな…転校してきて、独りでいるから可哀想だと思って、気を遣ってくれてたんだと思うけど」
「そんなタイプでもないでしょう。彼」
(似ているのかも…)
リツコと加持。正反対のようで似ている。確かに、興味のない物事には執着しない。自分は自分…他人にどう思われようが関係ない。それでいて、大切な人は何があっても守ろうとする。
リツコは母親を。加持は叔父を。
(リツコも加持も好きなんだよ…)
それだけはハッキリしている。二人が好きだし、とても大切だ。でも、リツコに対するそれと、加持に対するそれの違いが、やはりミサトには良く分からない。
「でもさ、あんな綺麗な人と付き合ってたんだよ?」
「関係ないでしょう。昔の事は」
(…どうなんだろ)
好きだと言われても、どうしても信じられない。異性として扱われていないとさえ、最近まで思っていた。リツコという第三者の意見を聞くと、ほんの少しだけ考えが変わっていく。
「あなたも好きでしょう。彼の事」
ドキッとした。加持本人に言われるより遥かに。正直、意識した事はない…しないようにしていた…たぶん。
「わ、分かんない」
これは本音だ。色恋沙汰とは無縁だったから、異性に対しての"好き"という感情と、友人に対しての感情の区別が、どうしてもミサトにはつかない。
「良いと思うけど。少くともあなたを大切にしているでしょう」
「色々ウワサもあったよね」
ミサトは気にならなかったけれど、リツコはどう考えているのか聞いてみたい…そう思って話を振ってみる。
「本当かどうかなんて知らないわ。でも、あなたに対しては真剣だと思うけど。実際、彼はあなたといる時間が長いでしょう。噂も最近聞かないわ。明確じゃないの」
加持と一緒に過ごす事が多いのは確かだ。叔父と話すのが楽しいし、いつもミサトを歓迎してくれたから。
「昔は昔。人間なんて変わっていくモノよ。私も苦手だと思っていたけれど、嫌いじゃないわ。ああいう男」
リツコが言うと説得力があるな、とミサトは思う。成績が良いだけではなく、頭が良い人。賢いんだ、彼女は。しかも、観察力もあり、鋭い。とても同じ歳とは思えない。
(こんな素敵な人に友達って言われるなんて、恵まれてるなあ…)
先程の考えは飛んでいった。数ではない。本当に分かり合える人と出会える事は、とても凄い偶然。
(リツコと会えて良かったな)
ミサトは心からそう思った。
長期の休みは…春はそれほど長くもないが、毎日バイトに入れる。昼は一日おきに病院、夜はバイト。叔父がどうなるか分からないから、貯金はしておくべきだ。試験も終わり、後は大した授業もない。今日からまた働き始めた。
前に雇ってもらった居酒屋。忙しいが、その方が良い。動き回るのは性に合っている。
「加持君、バイト終わったらみんなで遊ぶけど行かない?」
「悪い、用があるんでまた」
こんな風に冬休みも、バイトの仲間に何回か誘われた。今はそんなヒマはない。何度も断るのも悪い気はするが、仕方がない。第一、気が乗らない。
「全然ハナシと違うコじゃん」
会話が聞こえてくる。嫌と言うほど聞かされた話。女の誘いは絶対に断らないとか、誰とでも寝るとか、そんな話。昔の知り合いにでも、聞きかじったんだろう。かなり誇張されてるよ…加持は心の中で答える。
(一応、浮気した事すらないんだが。寧ろされたんだが)
本当のところ、浮気をしたくなる時期…一般的な言い方をすると、倦怠期。そこへ入るまで、長続きした事がなかっただけかもしれない。
特定の彼女がいない時は、当たらずとも遠からず…らしき事はしていた。だが、お互い様という感じだ。寂しさを埋める手段だったり、その場のノリ。楽しければ良かった。
(思い出す事もないな)
真剣になるのが怖かった…そうだと思う。失った時が辛い。だから、適当で良かった。今思えば。
(…後先考えられなくなるような相手には出会えてなかったんだよな)
なるべくミサトの事は考えないようにしている。敢えて忙しいバイトを選んだ理由の一つ。それでも考えてしまう。叔父の事がなかったら、彼女の事だけしか見えなくなっていたかもしれない。
(ま、今は良いさ)
呑気に構えよう。成るように成るだろう。自分の気持は伝えてある。ミサトは色々抱えている人間だ。急ぐ気はなかった。心は開いてくれている。それだけで加持は良かった。
終業式の後、教室に戻る。クラス替えはないから、特に思うところもない。みんなそんな感じだ。
(やった…)
次々に返されてきたテストの点数を何回も見直す。
(確実に今までで最高だ…)
加持に教わった箇所が的確に出ただけ。本来の意味では、何の勉強にもなっていない。それでもミサトは気分が良い。
(努力した結果が形になるのって嬉しいものなんだ)
努力も何も、自分の実力で得た訳ではないが、やはり結果として表れるのは嬉しいものだ。
(勉強のやり方を工夫してみよっかな)
それでも向上心には繋がった。勉強に対する意欲は上がる。次も頑張ろう…ミサトは答案用紙を握りしめて決意した。
「俺、今日急ぐから先行くわ」
「うん。病院?」
「いや、家の方。改装終了したから、説明とかあるんだよ」
「そか…一先ず安心だね」
一つ、やらなければならない事が片付き、加持も一息つけるだろう。
「あ、そうだ。ありがと…テスト良かったよ。加持のおかげで」
加持は笑うと、ミサトの頭を軽く叩いた。
「やりゃできるんだよ、この頭。夜電話するわ。じゃあな」
そう言うと、足取り軽く加持は教室を後にした。
「リツコは春休みどうすんの?」
みんなさっさと帰っていく。暫くリツコには会えない。ミサトは新東京に縛られるから。考えたら憂鬱だが、自分だけが辛いんじゃない…そう考える事が多くなってきた。
「塾と家の往復。変わらずね。あなたも無理しないようにね。たまには電話してね…時間があれば」
「うん。するするっ…何もなくても、して良いかな?」
「勿論よ」
そんな風に言われて嬉しくなる。リツコと徐々に距離が縮んでいくのを感じる。
(二年になったら、良い事ありそう)
残念ながら、ミサトの予感は外れる。正確に言うと、彼女達に直接的な変化や事件は起こらない。周囲の変化がもたらす多くの謎と疑問。それらが不信感に変わっていく。そして、三人は今以上に結束を固める事になる。
春休みに入った初日。ミサトは新東京へ来ていた。
(なんか、いつもより時間かかるな)
体勢を変えて、体中のレントゲンを録られる。それからCT検査。ミサトは知らないが、最新の器具だった。患者の負担は最少限になる。それでも身動きがとれない機械の中は苦手だ。
(イヤだな、狭い所)
この検査を好む人間は少数派だろう。狭くて暗い、筒の中に寝かされ、不愉快な音が響く。自分だけが特別苦手な訳ではないと思う。
―俺が守るよ
加持に言われた言葉を不意に思い出し、ミサトは噛みしめる。検査中だからペンダントは着けていない。あれを離していると不安になる…その分、あの言葉が頼もしく感じる…こんな時は。
「はい、終わりましたよ。ゆっくり起き上がってね」
検査員の言葉を聞いてホッとする。ほんの十分かそこらだろうけれど、異様に長く感じた。特に今日は。
(やっと終わった…早く帰りたいな)
頭がフラフラするし、とにかく疲れた。うんざりしながらいつもの部屋に戻ると、無表情な"あの人"が椅子に座っていた。
「暫くここには来なくて良い」
いきなりそう言われ、ミサトは拍子抜けする。また憂鬱な日々が続くな…と、思っていた矢先だから。
「だが、訓練は続けてもらう」
(…なんだ。結局来なきゃいけないのか)
嫌いではないが、やはりここまで来るのは正直面倒だ。
「心配するな。第二東京にも道場はある。そこへ通えば良い。長期の休みは平日は毎日。学校が始まったら週二回で良い」
「…え?」
「体の調子はどうだ?」
「特に問題はないですけど」
激しい頭痛は、最近起こしていない。昔の事より、今現在色々な事が起きたから、そちらを考えていたからかもしれない。
「もう自分で考えて自分の意思で動ける年齢だ。頑張りなさい…これは持っていろ。何かあった時に不便だろう」
そう言うと、男は携帯…スマートフォンをミサトに与えた。面倒だが、活用次第では便利だろう。お礼を言って受け取った。
「何かあったら、いつでも電話しなさい。分かったな?」
(やったー)
こんな開放的な気分になったのは久しぶりだ。とりあえず来なくて良いんだ…やたら検査に時間がかかったけれど、自分の体に異常はない。そう考えて良い…と、ミサトは思う事にした。
(何事も前向きに考えられるなあ、今は)
加持とリツコがいる。特にリツコは最近やっと本当の意味で仲良くなれた。二人を見てきたから、自分も頑張れる…そんな気がする。
(このやったら長い廊下とも、暫くお別れだね)
歩くだけで疲れる、長い廊下。白くて高い天井。人気のない、冷たい場所。ふと、ミサトは立ち止まり、後を見た。
(いないよね…)
あの時の少女を思い出す。何も読み取る事ができない、赤い瞳。あの子はなんだったんだろう?ここを歩いていると、また現れそうだと思った。いきなり登場されると驚かされるから、ミサトはキョロキョロしながら玄関まで歩いていった。
結局、少女には会わなかった。安心したような、残念なような気分になる。
(まさか、幽霊…だったとか)
いや、足もあったし、会話にはならなかったけれど、喋っていたし。
(ま、いっか)
考えても仕方がない。ミサトは大急ぎで玄関を出た。迎えの車が待っていた。他に交通手段がないから、用意してくれている。黒いセダン。運転手に会釈をすると、無表情でドアを開けてくれる。
いつも違う人だが、彼等は一度たりとも言葉を発する事はなかった。