バイトが終わると同時に、毎晩加持から電話がかかってくる。十時を過ぎた頃、案の定電話が鳴る。ミサトは急いで受話機を取った。

「"へえ。良かったじゃん"」

電話の向こう側の、加持の声は明るい。無事に終わって安心したのかな。嬉しい事が続くのは滅多にない…こういう時は、とことん喜ぶようにしよう。今までの分も。

「"疲れてる?"」
「"ぜーんぜんっ。滅茶苦茶元気"」

体は疲れていても、気にならない。心が元気だと。

「"ちょっと明日来れない?"」
「"へ?"」

(行っても良いのかな)

加持の家に最後に行ったのは、あの時…彼が一番辛かった時以来だ。ミサトも加持もその話はしない。しなくても、お互いに分かっていた。自分が加持を助けたとは思っていない。切っ掛けを作っただけ。ミサトがした以上に、加持は数え切れない程、助けてくれた。

「"ヘンな警戒すんなよ。俺一人じゃないし"」
「"えっ、叔父さん帰って来たの?"」
「"んな急に退院するワケないだろ。ユイさんだよ"」

(ユイさんが?)

「"じゃ、明日な。起きたら来いよ"」

どういう事だろうと思ったが、どうせ明日会うなら今聞かなくても良いや…そう思ってミサトは電話をおいた。



「おっはよー。おじゃまするね」
「よ、いらっしゃい」

ちょっと見ない間に、加持の家は変わっていた。改装したから当たり前だけれど。実際に目の当たりにするとのと、聞くのとでは違う。玄関までの階段はスロープになっていた。今まで気付かなかった程のちょっとした段差も、全てなくなっている。

加持が玄関を開ける。入口も平らになっていた。

「葛城さん」

ユイが出てきてミサトの顔を見て笑う。屈託のない笑顔だ。加持の叔父と同じ雰囲気。直接会うのは二度目だけれど、加持から良く話を聞いているせいか、ずっと前から知り合いだったような気がする。何より、ここに…加持の家にいるのが自然だった。

「おはようございます。おじゃまします」

ユイはどういう風に言えば良いものか、困っている様子だ。自分の家ではないから"どうぞ"と答えるのも変だ。だが、ミサトはユイの様子に気付かない。それほど彼女はここに溶け込んでいる。

「まあ、上がんなよ」

二階への階段は変わっていなかった。加持の部屋しかないから。そこまで改装する必要もない…そんな所だろう。

「後でお茶を持っていきますね」

そう言うとユイは慣れた仕草で台所へ入っていく。

「ユイさん、ずっといるの?」

階段を上りながらミサトが聞く。

「午前中だけ。なんか、掃除してくれたり昼メシ用意してくれたり。俺一人じゃ心配なんだってさ」
「そうなんだ。全く心配する必要ないと思うけど…加持なら」
「…叔父さんが心配してるんだよな」

未成年の甥を引き取ったからには責任がある。一緒に住んでいた時は加持を尊重し、束縛はしなかった。今は状況が違う。ユイに保護者代わりを頼んだ…時々様子を見て欲しいと。

「よっぽどユイさんの事を信じているんだね」
「…俺は別に大丈夫なんだけど」

確かに自分なんかより、加持は余程しっかりしている。叔父は責任感が強い人なのだろう。

(それが普通なの?)

ミサトは"あの人"と血の繋がりはない。新東京には学校もないし、ここで独り暮らしをするしかなかった。

(あそこに住み続けるワケにはいかないしね…)

「良かったじゃん。嫌だったろ?あそこに行くのは」

久しぶりの加持の部屋だけれど、全然変わっていないから、そんな気がしない。ミサトは前と同じように床に座った。

「うーん…でも、なんにも分かんなかったな」
「それはそれで構わないだろ。赤木は期待してなかったと思うが」
「…だよね。役立つだなあ、私」
「おっと、勘違いするなよ。葛城が頼りにならないって意味じゃなくてさ」

ミサトから何かを得たとしても、母親が戻るか戻らないかは別問題だと加持は言う。彼女は大人だ。自分の意思で新東京にいる。

「リツコは寂しいと思うな」
「…俺が言うのもなんだけど、いくら赤木みたいな子でもずっと一人にさせとくのはな」

どんな魅力が…魅力的なモノがあるのか。娘を放っておいてまで、そこにいたい理由。

「やっぱ、もっと聞いとけば良かったかな?でも、教えてくれるワケないしな」
「行った事ないし、なんとも言えないが…難しいな」

考えてみると、加持には関係のない話だ。聞いてくれるのは嬉しい…けれど、巻き込むのも気が引けた。どっち道、暫くは動きようがない。ミサトはこの話は止める事にする。

「リョウジくーん、お茶が入ったわよ」

階下でユイに呼ばれ、加持は降りていく。ここに叔父がいたら、仲の良い夫婦と息子の三人。普通の幸せな家庭…そんな風景が思い浮かぶ。

(早く退院できると良いね…)

「ところで、武道訓練とやらは続けるんだろ?」
「うん。それは言われてるし。でも、新東京へ行くよりずーっとマシだよ」
「何時から何時まで?」
「春休みの間は、土日以外は毎日なんだ。夕方からね」
「俺土日、ずっとバイト入れちゃったんだよな…」

ミサトが新東京へ行くと思っていたからだ。居酒屋とは言っても、昼は定食屋になる。飲食業のバイトの身では土日に休む訳にはいかない。

「病院も行くしなあ。一日空く日ってないか…」

加持は珍しくがっかりしている。デートとやらを、それほど楽しみにしていたのか…そう思うと、ミサトは少し悪い気がしてきた。

「じゃあさ、私も病院ついてって良い?夕方までに戻れば良いし」
「そりゃ、嬉しいが…」

加持は何か考えているようだ。ユイの淹れてくれた紅茶を一口飲むと、机に肩肘をつき、ミサトに視線を向けた。

「とりあえず、この前の約束は延期ってコトで」
「…お見舞行くの迷惑?」
「それは大歓迎だ。ありがとな…だが、それはデートじゃない」

一緒に出かけるなら電車やバスの中で話せるし、充分だと思うけど…ミサトはそう考える。

「時間気にしたくないんだよ」

病院とバイト。家の事と叔父の事。ここ数ヵ月、加持は忙しかったし、考える事も多々あっただろう。表面には出さないけれど、辛かった筈だ。一日くらい、何も考えずに過ごしたい…そんな感じだろう。ミサトはそう思った。

「学校始まれば土日は空くよ」

ミサトがそう言うと、加持は少し意地悪な笑みを浮かべる。人をからかう時の顔だ。

「ふうん。葛城も楽しみにしてくれてんだ」
「ま、まあ…」

キツい時期を乗り越えつつある加持に対して、否定するのも気が引けた。それに、ミサトも少し寂しく思っている…時間が合わないのに。

「実に素直で宜しい」

本当に困る。加持こそ、本音なんだか、からかっているのか分かりにくい。ミサトは返答できずに下を向いていると、近くに加持が寄ってくる。

「な、なに?」
「なんにもしないって…そんな焦るなよ。やっぱ良いな、これ」

ミサトの首に下がっているペンダントを加持は手のひらに乗せる。制服だと見えないけれど、毎日着けていた。

「ありがとう…なんか安心するんだ。これ」

ミサトは目を細めて加持の手のひらのペンダントを見つめる。懐かしいような、そして、切ないような気持になる。これを見ていると。

「そろそろ行かなきゃ」

まだ早いが、加持と二人きりでこうしていると、落ち着かないというか、気恥ずかしい…そんな気分になってくる。今まではなんとも思わなかったのに。

「あ、そうだ」

ミサトは携帯を取り出して加持に見せた。

「渡されたの。番号入れてくれる?」
「おっ、とうとう持ったか」

便利と言えばそうだが、面倒なツールでもある。ミサトの言っていた事も加持は理解できる。

(コイツなら平気だろう)

本当に伝えたい事は相手に直接話すのが一番良い。文字だけだと誤解したり、されたりする。けれど、連絡手段として使うならやはり便利だ。

「ライン入れとくわ」
「使えるか自信ないけど」

簡単に説明して、加持は携帯を返した。

「ありがと。リツコにも教えとこ」



道場は学校の近くにあった。渡された地図を見ながら行くと、すぐに見付かりミサトはホッとする。絶対に迷うと思っていたからだ。

(あれ?先生…)

新東京と同じ先生だ。早く来たので話す時間はある。向こうでは、ちゃんと話した事がなかった。

「これからはこちらでお世話になります。お願いします」
「聞いていますよ。頑張りましょう」

(この人は、新東京とは関係ないのかな?)

「ここが私の道場だよ。あそこへは頼まれて行くだけです」

ミサトが聞いてみると、案外あっさりと答えてくれた。さすがに道を極めているだけの人だ。穏やかで話しやすい。稽古中は厳しいけれど。それは当然だ。一歩間違えて使えば、ただの暴力になってしまうから。

(…あの建物の職員さんじゃないんだ)

徐々にあそこから離れている…そう考えるとミサトは嬉しくなる。恩人である"あの人"と、リツコには申し訳なく思うが、やはり苦手だ。

道場生が段々集まってくる。向こうとは違う顔触れだ。小学生くらいから、年輩の人…年齢も性別も様々だ。

(良かったあ)

楽しくなりそう…そんな風にミサトは思っていた。



(ふむふむ…難しいなあ)

家に帰って、いつも通り適当な夕食をすませた後、ミサトは携帯をいじり始めた。リツコに連絡しなくてはならない。新東京に暫く行かなくなった事。

「がっかりさせちゃうかな…」

ナオコとの関係も絶たれる。元から直接はないけれど、情報を得る手段はなくなってしまう。

「でも、ちゃんと伝えておかないと」

独り言をブツブツ呟きながら、ミサトは電話を手にした。

「"はい…?"」
「"もしもしっ、リツコ?"」
「"あら、ミサトなの?携帯買ったのね"」

そうか…知らない番号からだから警戒したのか。ミサトの声だと分かった途端、リツコの声が明るくなる。

「"リツコ。実は…"」

新東京に行かなくなった事を告げても、リツコの声に落胆した様子はない。

「"良かったじゃないの。大変だったでしょう。毎週毎週縛られているのも"」

いつになく、リツコの声は明るい。

「"リツコ、なんか良い事あった?"」
「"分かる?明日母が帰ってくるの"」

(リツコのお母さんも?)

自分も、リツコの母親もあの建物から離れる…これは偶然ではない。鈍いミサトでもそれは察する事ができる。リツコは母親さえ戻れば、あの建物の事は気にする必要もなくなるだろう。

(変だよね?)

「"奇妙ではあるわよね"」

ミサトが考えている間、リツコも同じ事を考えていたようだ。声のトーンが下がる。

「"あなたに不利な事はなさそうだけれど…"」

(ホント、なんなんだろ?でも…)

"あの人"が何をしていても、これから何かをしようとしていても、平凡な高校生でしかないミサトには、それこそ関係がない。記憶の事とは別の話だ。

「"昔の事は、思い出さなくても良いかなって"」

一呼吸入れてからミサトは再び話し始めた。

「"今、それなりに幸せなかなあって。普通に生きてて、学校に行けて…リツコにも会えたしね"」
「"ミサト…"」
「"だから、考えないよ…もう。リツコのお母さんが帰って来るなら、あそこの事は"」



その夜、ミサトは一度、整理してみる事にした。最初の記憶。目を覚ました時、あの建物の一室のベッドの上だった。

それ以降の事は、うっすらとしか覚えていない。体中が痛くて、長い間立つ事すらできなかった…たぶん。手術をしたのは確かだと思う。傷の縫い目が何よりの証拠だ。沢山の検査を受けた。色々な事を聞かれた…けれど、なかなか喋れなかった。

どのくらいの間、そうしていたのかは知らない。時間の経過が分からなかった。

「…それで"あの人"と会ったんだよね」

これからは自分が保護者代わりだ。何も心配するな…そう言っていた。

「今更だけど、私の両親はこの世にはいないんだよね」

畳の上に寝転ぶ。薄々は分かっていたけど、もしかしたら、何か事情があって会えない…そんな風に考えてみた事もある。

「でも"これからは"って言ってたのだけは覚えてる…」

記憶にはないけれど、両親…或いは父親か母親のどちらかと、暮らしていた…そして"あの人"はそれを知っている。そう考えて良いと思う。それに、遺産は管理しているとかなんとか"あの人"は言っていた。決定的だ。両親が死んでしまっているのは。

「でも、孤児だったとか、産みの親に会った事がないって訳じゃない」

思い出せないんだからどっちでも良いや…忘れた方が良いから、今の状態なんだ、きっと。

(…でも、こういう事を考えても頭痛はしないんだ)

顔も思い出せない父親と母親だけど、悪い思い出じゃない。愛情はあった…少なくとも自分には。そう考えながらミサトは眠りに入っていった。



あっという間に春休みが過ぎていった。加持は病院とバイトで忙しかったが、変わらず元気だ。ミサトは一度、お見舞いへ行ったが、叔父は前よりかなり良くなっていた。体を起こせるし、少しだけ言葉も出る。

叔父の回復が、何よりも加持を支えている。ミサトも稽古が楽しくてたまらなかった。こんなに充実した休みを送ったのは初めてだった。

(…久しぶりだなあ)

電車の中から、駅で立っている加持を見ると、新しい学年が始まるのを感じた。彼も前のようにミサトを見付けると、軽く手をあげ、横に立つ。

「よ、暫く。元気そうじゃん」

そう言う加持も明るい。また少し背が伸びたかな?体つきも逞しくなった気がする。特に肩幅や腕が。大人の男性に近付いていく…その途中。

「なんだよ、ジロジロ見て…目が離せない程いいオトコか?」

(…中身は変わんないわ)

考えた事がなかったけれど、確かに一般的に見たら、結構格好いい方なのか…ミサトはほんの少しだけそう思う。

「やっと葛城も俺の魅力に気付いたか」

ミサトの呆れた視線は無視され、満足そうに何度も頷く加持。

「会えない時間もムダではなかったな」
「なによ、それ?」
「愛が育つんだよ。久しぶりに会うと"私寂しかった…加持が好きなんだ。ようやく分かったわー"って、考えてるだろ」
「考えてません」

(やっぱ訂正しよ…)

電車から降りて通学路を歩いていく。新入生ともすれ違い、二年生になったんだな…と改めてミサトは思う。

「あれ、携帯…」

珍しくミサトの携帯が鳴り、慌てて取り出す。新東京からではないか…と、一瞬気分が落ちるが、リツコからのラインだ。それはそれで珍しい。

「赤木?」
「うん。なんだろ?学校休むとかかな」

体調でも崩したのではないかと案じたが、文字を見てミサトは首を傾げた。

「どうした?」

ミサトは黙ったまま携帯を加持に差し出す。彼もそれを見て同様に首を傾げる。

'ミサト、加持君も一緒?学校に来ても驚かないで。私も驚いているけれど。とにかく早く来て'

「なんのサプライズだ?」

文面だけでは読み取れない。学校にいるから、通話ができないだけかもしれないが、リツコは伝えたい事は言葉にする人だ。勿体ぶった事もしない。本当に何か起きている。

「…急ご!加持」

ミサトは走り出す。連絡をする余裕はあるから、リツコに直接的な被害はないはずだ。周囲に何かが起きている…周りの事は気にかけない彼女からのライン。嫌な予感がする。



クラス替えはないし、教室も三年間同じだ。慣れた道を通り、二人は中に入ろうとした。

「…?」

入口で立ち止まり、もう一度外に出て教室を確かめる。2-A。間違えていない。第一、リツコが教室にいる。彼女はドア側の一番前の席で、所在無さげに携帯を見ていた。

生徒用の机が、半分くらいに減っていた。広さは変わらないのに、後ろ半分の机が全て撤去されている。

「り、リツコ」
「ミサト…」

がらん、とした教室で、他の生徒も訳が分からないという表情をしていた。

「みんな、どこ行っちゃったの?」
「事情が変わったのかしら?クラスが増えて分散されたとか…聞いてはいないけれど」
「俺ちょっと、隣見てくるわ」

そう言うと加持は、教室を出て行く。二つしかないから、出ていったと思ったら、すぐに帰って来た。

「隣も似たようなモン」

答えを聞くまでもなく、リツコもミサトも予想はついていた。勿論、加持も。念のため確認しておきたかっただけだ。程なくして担任が入ってくる。皆、不思議に思いつつそれぞれ席に着いた。

「(進学クラスとかに別れたのか?)」
「(だったら、リツコもそっち行くんじゃないの?)」

名前の順なので、加持とミサトは隣の席だ。二人はコソコソ筆談をする。

「進級おめでとう。ここにいるのはそれを認められた者だけです」

教室中がどよめく。流石に普通ではない。いくら進学校でも、余程の事がない限り進級はできる。

「認められたとは、何をですか?」

一人の生徒が手をあげて質問した。皆、息を飲んで答えを待つ。

「余計な事は考えないようにして下さい。尚、この事は下級生には内密です」

(内密ったって、誰か言うっしょ。フツー)

馬鹿馬鹿しい…加持が内心、そう考えてミサトに渡すべく、ノートの端に書き始めたが、担任の次の言葉で手が止まる。

「余計な行動をした者は即刻、退学してもらいます」

――プロローグへ続く

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