週に一、二度、ミサトは加持の家へ寄るのが普通になっていた。加持の叔父はとても温かで穏やかな人だ。
彼と加持が作るご飯も美味しい。極普通の家族…本当の親子ではないけれど、お互いに相手を大切に思っている事は伝わってくる。
ここでは気を遣わないで良い…自然にそうさせてくれる空気がある。だからミサトは加持の家が好きだった。
彼の叔父も。
余計な事は聞かない。でも、話は真剣に聞く姿勢をとってくれる。この人の持つ包容力がミサトはとても心地良かった。
(加持君が叔父さんを大切にしているのが分かるな)
たった一人の身内だから…というのもあるかもしれない。けれど、血の繋がり等関係なしに、加持も一人の人間として叔父が好きだった。
「俺はまだガキだし、何もできないが、卒業したら叔父さんに楽をして欲しいって思う」
そう言っても、リョウジは好きに生きろ…彼はいつも、そう言うと加持は話す。
「高校も行く気、なかったんだが」
中学を出たら働くつもりだったが、叔父が絶対に許さなかった…本当にやりたい事があって、その道を進むのなら構わないが、そうでないならダメだ…叔父はその意見は曲げなかった。
「で、どうせなら進学校に行きゃ、ちょっとは安心してくれるかなってさ」
「そっか…だから加持君勉強できるのね」「葛城は分かってるだろうけど、俺、勉強は好きではない。嫌いでもないけどな」
必要最低限の物しかない、加持の部屋。彼は大体椅子にふんぞり却って座る。
「だから一生懸命なんだ」
ミサトは床に座るのを好む。一度、椅子に座りながら眠ってしまい、倒れそうになったからだ。
「まあ、要領良くやりゃ、なんとかカッコつく位の成績は採れる」
「はあ、そうですか…」
(自分は要領が悪いのかな?)
ミサトは自信に溢れた顔の加持を見上げ、ため息をつく。何でもできる人には分かんないよね…そう思った。
「おっと。落ち込むな。葛城は凄いじゃん」
「別に下手に慰めてくれなくても良いけど。余計にミジメになるんだけど」
加持は椅子から降りて、ミサトの前に座ると、軽く頭を叩いた。
「何よ?バカをバカにしてっ」
「そんなんじゃないって」
真正面で視線が合う。ミサトはこういうのは苦手だ。どうすれば良いのか分からなくなるから。でも、加持のこんな行動には慣れていた。
慣れていたというより、最初から平気…寧ろ安堵できる…そんな感じ。それは加持の性格だからか、自分が彼に気を許しているからか…ミサトは自分自身でも分からなかった。
「ホントだって。葛城は格好いいぜ」
「なんか、バカにされてるみたいに聞こえるんだけど」
「強いし、授業中にあんなに堂々と眠れるヤツはなかなかいない」
「…全く褒められてる気がしない」
もう一度、加持はミサトの頭を叩こうとしたが、左腕で素早く受けられ、逆に腕をひねられてしまう。
「いてて…マジで痛いって」
力はいれてない。動けはしないだろうけど痛くはないはず。
「痛いワケないでしょ。なんなら本当に痛くしてあげても良いけど」
ミサトは笑う。わざと顔を歪めていた加持も、つられて笑った。
「ほら、すげぇじゃん」
「こんなのある程度習えば誰でもできるし」
「そうじゃなくてさ。いや、コレも凄いが」
「じゃあ、何よ?」
加持が少し、視線を逸らす。どことなく何か言いにくいような、言って良いのか、迷っているような感じ。こんな彼は珍しい。
「ハッキリ言いなさいよ」
「…いや、なんつーか」
「だから、何よ?」
降参…そんな感じで加持は口を開く。
「笑えるから」
「は?」
自分が余程滑稽な人間なのだろうか?今までそんな風に思った事はない。やはり、バカにされてる…そう思った時、加持はもう一度、同じ事を言う。
「笑えるんだよ」
「私、そんなに変?」
ちょっと心配になる。もしかすると、自分は周囲から、かなり変わった人間に見られているのではないか…そんな風に思い始めてくる。
「いや、こういう所も可愛…良いけど」
一息いれてから、加持は言葉を継ぐ。
「笑えるんだ。葛城といると…心から。取り繕ったり、媚びなくても。自然に笑う事ができる」
どういう意味なのかミサトには分からなかった。誰といても加持は楽しそうに見える。その時のミサトには、加持が言った言葉の意味を深く考えなかった。
加持の家には行くようになっても、学校ではあまり話はしなかった。別に周りに変に勘ぐられるんじゃないか…等ではなく、自然とそうなっていた。
休み時間も、大体みんな机に向かっている。そこで会話をすると、浮いてしまう。特に男子と女子だと。
けれど、加持と一緒に下校するのは普通に成りつつある。余計に目立つ事にはなるし、噂をする生徒もいた。でも、会話が聞かれる訳ではない。加持は当然、ミサトも気にしなかった。
そしてもう一人。母親に会った事を話してから、リツコはミサトに興味を持った。共に弁当を食べる回数が増えていく。リツコから誘われる方が多い。
理由は何であれ、ミサトは嬉しかった。
「あなたには何か事情がある様ね」
「事情?」
「あんな所に住む人間は少ないわ。母に会ったのは"あの建物"の中でしょう?」
バレバレだったか。リツコは今まで気を遣って深く聞かなかっただけ。確かに、新東京…と言うと、凄い都会に感じるが、今はまだ殆んど何もない。
その場所で異質を放つ機関…ミサトが週末に訪れる場所。リツコの母親が、彼女曰く"とり憑かれている"場所。
「ああ、ごめんなさいね。話したくない事は話さなくて良いのよ」
「ん?別に隠していたワケじゃないよ。全然平気」
パンを頬張りながらミサトが言うと、リツコは呆れた顔をしつつも、表情が和らいだ。
「そんなに面白いの?あそこは」
「んー私も一部しか知らないんだ。やたら広いけど、決まった部屋しか行かないし」「決まった部屋?」
「うん。そこで色々話をしたり、定期検査するの」
リツコが難しそうな顔をする。難しいと言うより不思議そうな、それでいて心配そうな感じ。何かマズイ事を言ったかな…と、ミサトは少々後悔した。
「どこか悪いの?」
「悪い?アタマは良くないけど」
牛乳で喉のパンを胃に流し込みながらミサトは答える。
「そうじゃなくて…立ち入った事を聞いてしまうみたいで申し訳ないんだけど」
「リツコに隠す事なんてないけど」
"リツコに"―何も考えずに言った言葉だが、リツコの心はこの一言で、ミサトに対する壁が無くなっていた。
「病気か、過去に大きな怪我でもしたの?」
「ああ、そういう意味か」
「…普通はそう捉えるでしょう。あなたの話を聞いたら」
妙な時期に転校してきた、変わった女の子。リツコの考えは自然だ。そうなら辻褄が合う。
「確かに、怪我はしてるかな。傷跡がしっかり残ってるし」
そう言うと、ミサトはシャツのボタンを外し始める。
「ちょ、ちょっとミサト…」
唖然とするリツコを気に止める事なくミサトは前をはだけて彼女の方を向いた。
「………」
胸の間から、下に続く深い傷。幾つもの脱い目があり、赤く腫れている。リツコは思わず箸をおいた。
「あ、ごめん。食欲なくなるよね。これがね、お腹の辺りまであるんだ」
自分は見慣れていたし、体の一部みたいな物だが、他人から見たら気味が悪いだろう。リツコに嫌な思いをさせたかな、とミサトは案じた。
「頑張ったのね」
「え?」
「痛かったでしょう。大変な思いをしたでしょう?」
同情…とは違う。哀れんでいるのではない。勿論、気味悪がる訳でもない。リツコの表情と言葉の温かさ。意外な反応に少々戸惑う。
「自分だけが大変だとか、不運だとか、甘ったれた考えなのよね」
ミサトが考えていた以上に、リツコは母親の事で悩んでいた。学年一の成績で、周囲の生徒からも、教師からも一目置かれているリツコ。
それでいて外見も良い。整った大人びた顔立ち。白い肌。均整のとれたスタイル。
何でも持っている…そんなリツコでも大きな悩みを抱えていた。他人にそれを話す人ではないから、誰も知らないだけで。
「ヘンなのかな、あそこって」
薄々とは感付いていたけれど、それを口にしてしまうと、何もかも崩れてしまう…ミサトは"あの人"に保護され、養われているから。
でも、母親を案ずるリツコを見ていると放っておけない、見てみぬフリをしてはいけない…そんな気がしてきた。
「たまにはさ、どっか外行かない?」
珍しく加持から学校で誘われる。金曜日のちょうど最後の授業が終わって、皆が席を立ち始めた時。
「どっかってどこ?」
「葛城の行きたいとこ」
何人かの生徒が二人の会話に聞き耳を立てているが、加持はどうでも良かった。
「良いけど、行きたいとこが分かんないかも」
ここに来てから学校と家、必要最低限の買い物。そして加持の家。それらだけがミサトの生活だった。
(ここに来てから?)
それまでは何をしていたんだろう?
そう考えると、激しい頭痛がしてミサトはこめかみの辺りを押さえる。
「どうした?大丈夫か?」
クラクラする。いつもより酷い。立っている事もままならず、その場にしゃがみこんだ。
「おい、葛城…」
「大丈夫。悪いけど、薬、取って…」
カバンを指差しながら、やっとの思いでミサトは言う。
「分かった。開けるぞ」
人様の、しかも女の子の私物を触るのは躊躇うが、場合が場合だ。加持はミサトの指示に従う。すぐに透明のピルケースが見つかった。
「ほら、水あるからやるよ」
「…平気…そのまま飲める」
震える手で薬を取り出すと、そのまま口に放り込んだ。
「凄い汗だな。保健室行くぞ」
「すぐ治る…」
いつもそうだ。昔の事を考えると頭痛がする。そして、与えられている薬を飲むとラクになる…筈だ。ミサトは黙って耐えていた。
「痛い…」
知らぬまに口にしていた。なかなか治まらずミサトはその場に倒れ込む。さすがに何人かの生徒もミサトに近付き、心配そうに声をかける。
――先生呼ぼうか?
――大丈夫?葛城さん
「しっかりしろ。肩貸すから掴まれ。歩けるか?」
ミサトは微かに頷く。肩に手をかけると、その熱さに加持は驚く。なんとか歩こうとするが、ミサトはよろけてしまう。
「私も着いていくわ」
リツコが反対側の腕を取る。ぐったりしている人間を、一人で支えて歩くのは大変だ。リツコの申し出は助かった。二人なら、ラクだ。ミサトを引き摺るようにして保健室へ向かった。
「病院に連れてってもらおうな」
「ダメ…絶対にダメ、病院は行けないの」
(どうして?)
考えちゃいけないの?思い出したらいけないの?だから、そうしようとすると、頭が痛くなるの?
(思い出す…?)
何を?何の事を?改めて考え始めると、また酷くなる、頭痛。ミサトはとにかく痛みから逃れたくなり、目を閉じて加持の肩にもたれた。
(…やっぱり、おかしいの?)
痛み続ける頭の中で、ミサトは考え続ける。考えれば考える程、酷くなる頭痛。
(やめよう、今は…)
「だいぶ顔色戻ったわね。えーと、葛城さんだっけ?」
保険医はハキハキした感じの、四十代くらいの女性。長い髪に眼鏡をした、いかにも保険医…という雰囲気。
「はい…もう全く痛くないです」
ベッドで横向きに寝ながらミサトは答えた。実際、いつもすぐに治まる。
「しょっちゅうあるの?こういう事」
「ええ、まあ、たまにあります」
話すと長くなるし、ややこしくなる。適当に誤魔化すしかない。
「病院へは行ったの?」
「はい。特に原因はないみたいです」
腕を組んでじっとミサトを見つめる保険医。何か見透かされそうで怖くなる。
「ちゃんとした検査は受けたのね?」
「は、はい」
「ま、明日にでも主治医の所へ行ってね。今日は送って行くから」
ミサトは少し考えた。今は本当に体調は戻っている。それに、こんな事には慣れていた。先生の申し出を断る事にする。
「大丈夫です。一人で帰れます」
「…そうねえ、でも」
足音がして、保険医は言葉を止めて振り返る。
加持とリツコ。二人が心配そうにミサトを見る。
「加持君、リツコ…」
そうだ。二人がここまで連れてきてくれたんだ。ミサトは思い出した。しかも、今まで待っていてくれたらしい。
「お、よさそうだな」
「治まったみたいね」
不意に涙が溢れてくる。こんな風に自分を気にかけてくれる人がいる…二人も。ずっと独りだった。高校に入っても、それが続く。そうだと思っていたから。
普通の人には当たり前な事かもしれない。でも、ミサトには普通の人が持っている物が何もない…そう思っていた。今までは。
(友達、って言って良いのかな?)
母親と共通の場所へ出入りするミサトだから、リツコが自分に親しくしてくれた。それは分かる。
帰る方向が同じで、気さくな性格だから、家に誘ってくれる加持。
きっかけは何であれ、今ここに二人がいる…いてくれた事がミサトは嬉しかった