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「結婚するんだ、あたし」
夜も深まり既に日付も変わっている午前一時過ぎ。トイフェルの部屋へと酒を呑み競べに来ていたアレスは何でもないことかの様にそう告げた。彼女は面倒臭そうな表情を顔に浮かべていて、これから酒の肴にもならないつまらない話をするぞとでも言う様な調子だったが、片やトイフェルは全身が凍りつき何の反応も返せずにいた。
今、この女は何と言ったか。
彼女が口にした言葉、単語が脳内を巡り一周してもまた延々とループし続ける。硬直した全身からは嫌に冷えた汗が止まらない。
頭も痛い。昔付けた古傷が疼く様なズキズキとした痛みが拡がり、目眩までしてくる。そんな傷、負った覚えも負わされた覚えもありはしないのに。
「―‥誰とです」
貴方は誰と結婚するんですか。
痛む頭を抑えながら辛うじて紡ぐことの出来た言葉は途切れ途切れで語尾の方は掠れてしまった。
平静を装いたいのに鼓動する心臓の音がやけに五月蝿い。 苦しくて、服の上から胸を抑えてもそれは酷くなるばかりだ。
情けないことに自分は間違いなくこの女と他の誰かが結ばれることに動揺していた。
どうして。今更。
何百年単位で生きている魔族の自分にとってこの女はただの人間でいいはずじゃないのか。
誰と、だなんて知って一体自分はどうしたい。
「厨房のシェフと。何度も迫られてさ。いい加減しつこいし、まぁ悪くなかったからOKした」
適当なアレスらしい適当な理由。
そんなのは既に分かりきっていて、当たり前のことなはずなのに。
顔もロクに合わせたことのないシェフに邪な嫉妬心を抱いて
「貴方はそれでいいんですか」
嗚呼、また馬鹿なことを訊いた。
「全然、いいよ。これでいつの間にか三十過ぎて婚期逃したら笑えてくるだろ」
アレスは酒瓶を瓶ごと呷りながらやはり何でもないことかの様に言う。
それは誰でも良かった、そういうことか。
今ままで崩れてしまわないように均衡を保っていた何かが音を立てて崩れていく。
トイフェルはノースリーブから伸びる彼女の細い腕を牽き、衝動のままに備え付けの寝台へと押し倒した。
信じられなかった。
他の誰かが彼女の身体に触れるだなんて、もう既に触れているかもしれないだなんて。
許せなかった。彼女がそれを許していることが。
「―‥お前はそれでいいの」
下から聞こえる何の感情も籠っていない様な無機質な声。
どうせ、彼女はいつもの面倒臭さ気な顔をしているに違いない。
それなのに見下ろせばアレスは泣き笑いの様な奇妙な表情をしていた。 アルコールのせいか、サファイア色の瞳は波打ち潤んでいるように思える。
何でそんな顔―‥。
「かまいません‥」
自分は何も見ていない。何も知らなかった。
トイフェルは剥き出しの白い首筋へ思いきり噛み付いた。
どうせ他の誰かのものになってしまうのだから、どうかせめて今だけは。

随分、酷く抱かれたものだ。
翌朝、アレスの身体は軋んで悲鳴をあげていた。特に人に言えない所がもの凄く痛い。身体には散々噛まれた痕が生々しく残っている。
アレスは腹立たし気に元凶である悪魔を睨んだ。
どうして、明らかに負担がかかっている自分よりも目覚めるのが遅いんだ。安らかな寝息を立てながら気持ちよさげに眠っているのだから尚更腹が立つ。
起きている時よりもあどけない無害そうな寝顔。
張り倒したくもなったが、暫くトイフェルの顔をまじまじと眺めていると、情事中の記憶が鮮明に思い出されて何とも言い難い気分に駆られた。
『アレスさん―‥俺を置いていかないで』
彼は果てるときそう言った。
置いていくなと言われても自分は間違いなくトイフェルよりも早く死ぬだろう。
矛盾している。それなのに、その言葉は頭にこびれついてどういうわけか離れようとしないのだ。
「あー、人間と魔族の間に子供って出来んのかな」
そうすれば既成事実の一つや二つ作ってしまえるのに。
end

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