冥王星にさよなら

□子どもと悪い大人
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学習塾の先生を尊敬していた。私の中の全てをひっくり返してくれた大人であった。眩しかった。ただ、ただ、眩しかった。先生の教え子でいられることが何よりの幸福だった。
けれど、幸福は長くは続かない。ある日、先生がなんでもないようにそれを告げた。「オレ、講師辞めるわ」私は素で、先生エイプリルフールはまだ先だよと思ってしまった。酷く悲しかった。先生は陽気に笑ったまま言った。「自分で塾、開くわ。お前、来るよな」当然のように言って貰えることに涙が出て来そうになった。「当たり前じゃん」先生の後ろなら何処だって付いていきますよ。
開講初日だと云うのに、生徒数は20人前後。小学生から高校生までと幅広く、先生一人では流石に裁ききれないと思った。すると、先生は30前後の顔の整った青年を連れてきた。キャーと黄色悲鳴が響く。「新しい先生だぞ」先生が得意気に告げた。先生曰く、その人は先生の舎弟なようでシンドバッドさんと言う。
元は貿易関係の仕事をしているが、先生のピンチに助っ人に来たらしい。「みんなよろしくなっ!」類は友も呼ぶ、とは本当だった。
シンドバッドさんも先生のように人を惹き付ける力を持っていた。眩しいなぁ。
ただ、そう思った。
シンドバッドさんは、一躍人気者になった。生徒の大半がシンドバッドさんに教えてもらいたく彼の周りに詰め寄った。
その状況は私としては、とても都合が良かった。みんながシンドバッドさんに詰め寄れば、必然的に私が先生に教えて貰う時間が長くなる。嬉しかった。先生に教えて貰うことが。先生に目にかけて貰えることが。

「おい。お前は、シンドバッドのとこに行かなくていいのか」

「課題があるので。それより、先生ここ教えて下さい」

そう告げれば、先生はどれどれと教えてくれる。
私は先生がいいんですよ、なんて言えやしない言葉を何度も繰り返しこの時間がずっと続けばいいのにと願った。
それだけを願った。
だから、思うのだ。そう願うことの何がいけないのだろうと。
どこで、間違えてしまったのだろうと。



**



いつものように塾で課題をこなしながら予習と復習を行う。わからないところ、ページがあればマーカーやポストイットで区分をし先生がいつ教えに来てくれても大丈夫な体勢をとっていた。

「大丈夫かい。教えようか」

えっ。
シンドバッドさんが、初めてに私に声を掛けた。いつも、詰め寄る生徒達に、教えているだけなのに。全く会話をしないわけではないが、本当にこんなことは初めてだった。
大丈夫です、と断ろうとすると横槍が入る。しかも、それを入れたのは先生だった。

「よのは、シンドバッドに教えて貰えよ」

そんなことを言われたら断れないじゃないか。私は、先生に教えて貰いたいんですよ。先生に、誉めて貰いたいんですよ。先生に、見て貰いたいんですよ。オレが教えるから、いいと言って欲しかった。じわりと目に涙が滲みそうになるのを堪えてシンドバッドさんに教えて下さいと告げた。

「…、どこがわからないんだ」

「ここです」

するとシンドバッドさんは、意図も簡単にその問題を解くコツを教えてれた。凄い。呆気にとられた。難しかった問題が、あっと言う間に簡単な問題になってしまった。問題を見て、シンドバッドさんを見てぽろりと溢してしまった。

「凄いです」

言ってから後悔する。教えて貰うのは、先生じゃなきゃ駄目なんだ。誰でもなく先生なんだ。単純な自分を恨めしく思う。

「ありがとうございます」

「…どういたしまして」

シンドバッドさんは、そう言い立ち去るとまた生徒達に詰め寄られていた。

「どうだ。シンドバッドは凄いだろ」

「はい。あっ、先生。ここと、ここと、ここ。教えて下さいね」

「お前はなぁ」

呆れたように先生が言う。

「えっへへ」

誤魔化すように笑えば、先生は仕方ないと教えてくれた。やっぱり先生がいいんです。私は先生がいいんですよ。



**



最悪だった。ここ最近、本当に最悪だった。塾に行くと、シンドバッドさんが私に教えてくれるようになった。頼んでもいないのに。
10割り中10割り先生に教えて貰えていたのに、いつの間にか5割りになってしまっていた。しかも、私の席にやたら長くいる。勉強以外の話を振ってくる。
その中には私の好きな話題もあり、時折ノってしまいそうな時もある。本当に単純な自分が恨めしい。
「私、最近、先生と全然しゃべってない」と先生に愚痴を溢せば、仕方ないなと言い開講時間前に来いと言ってくれた。嬉しい申し出だった。
嬉しい気持ちを我慢出来なく、走っていけばそこに先生はいなかった。

「うそ」

先生がいると思い満面の笑みでドアを開けたら、そこにはシンドバッドさんしかいなかった。あれ、おかしい。私が、困惑しているとシンドバッドさんが微笑みながら告げた。

「急に用事が出来て、オレが留守番中なんだ。それにしても今日は一段と早いな」

何を陽気にこの人は言っているのだろうか。一段と早いな? 当たり前だ。先生と約束していたんだ。お喋りするって。なのに、この人は。この人は。じわりと涙出そうになった。
元はと言えば、この人がいけないんだ。この人が、先生の教えてくれる分をとってしまうから。
私なんか、教えなくていいのに。寄ってくる生徒に教えて上げればいいのに。

「折角、来たんだ。勉強していて構わないよ。何なら、教えるが」

結構だ。結構。断じて、断る。

「すいません、文具を買い忘れてしまったんで買ってからまた来ます」

先生が、戻って来る頃合いを見計らってまた来ようと背を向けるとシンドバッドさんが私の名を呼んだ。

「よのは」

「なんですか」

「そんなに、あの人が好きかい」

勢いよく振り返り、シンドバッドさんを睨めばよくわからない顔をしていた。上手く表現出来ないが、塾講師をしている時の顔ではないことはわかった。

「何を言っているんですか」

「君は、まるで忠犬のだな」

「何がいいたいんですか」

「主に見て欲しい。誉めて欲しい。構って欲しい。主以外には、隙を見せない」

何を言っているんだ、この人は。本当にわけがわからない。

「忠犬は主に愛して貰えるが、君は愛して貰えない」

シンドバッドさんが何を言っているのかさっぱり理解出来ないが「愛して貰えない」と言われた時、自然と涙が出てきた。
どうしよう、涙が止まらない。悲しくて、悲しくて仕方がない。

「あの人は、君を特別に思ってはいるがそこにあるのは男女の愛ではないんだ。だから、」

「だから?」

「だから、オレが君を愛してあげよう。あの人以上のあいを君にあげよう。富だってオレにはある。君になんだって、あげよう。だからさぁ、オレを選ぶんだ」

本当に何を言っているのかわからなく、ポカンとしているとシンドバッドさんが私に近づいて来た。

「おや、よのは」

「なんですか」

「睫毛にゴミがついている。とってあげよう。目を瞑って」

「はい、ありがとうございます」

この時ばかりは、本当に単純な自分を呪ってやりたくなった。
目を瞑れば睫毛にではなく、唇にシンドバッドさんのそれが合わさった。
驚き目を開ければ、シンドバッドさんの目は、獣のような目をしていた。
悪い大人が、そこにいた。



君の目の奥にあるものを、オレにくれ。よのは。




純粋な好意は人を傷つけることもあるけど、人を狂わすこともある。


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