企画小説置き場

□こずかたの空
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・・・・・・・

早々に仕事を終えて帰宅すると、部屋の中は暗く静まり返っていた。
出ていくとの言葉通りエレンの姿はなく、衝動的に飛び出したのか荷物はほぼ残ったままだ。
一緒に暮らしていれば衝突することだってあるし、喧嘩することも、あいつが家を飛び出すこともなかったわけじゃない。
ただ、別れを切り出されたことと『女の影』を指摘されたことは初めてのことだった。

寝室に向かい、シーツに残る女の髪を認めて舌打ちする。
引き剥がしてゴミ袋に詰め、いらだちのままに蹴り飛ばした。
クローゼットにぶつかってがさりと床に落ちるのを見たところで、気が晴れるわけでもない。
胸の内を占めるのはいらだちと焦りだけだった。

ひょっこり帰ってくるかもしれないエレンを、かかってくるかもしれないエレンからの電話を待ちわび、風呂にも入れずじりじりと過ごす。
あいつはいないのに、そこここにエレンを思い起こさせる品ばかり目についていらだちは募る一方だ。
小一時間ほど待って、耐え切れず結局自分からかけた。
コール数回でつながった先、無言で待つ相手につとめてやさしい口調で語りかける。
「おい、てめえいいかげん頭冷えたか。どうせ飲んでんだろ?…迎えに行ってやるから場所言え」
もっと他に言いようがあるだろうと思うのに、こんな風にしか言えねえ。
自分に舌打ちしたくなるが、捉え違いされても厄介だ。
そのまま電話の向こうの気配をじっと探る。

「…エレンなら寝ましたよ」
受話器からまったく想定していなかった声が届き、思わず眉をしかめた。
「かわいそうに、あんたに傷つけられて泣き疲れて寝てます。……俺なら、こんな悲しませたりしないのに」
その含んだ物言いに腹の中が重くなる。
「……てめえ誰だ」
「あんたに名乗る必要があると思うか?」
それだけ言って通話が切れた。
電源も落としやがったようで、繋がりもしない。
「クソが…っ」
閉じた瞼の裏、知らない男の背に腕を回すエレンが見えて息が詰まった。

・・・・・

「頭いてぇ…死ぬほど気持ちわりい…」
あのまま潰れて寝てしまったらしい俺は、翌日ひどい二日酔いと腫れ上がって開かない瞼、凝り固まってバキバキの体に苛まれていた。
ずいぶん遅くまで寝こけていたらしく、家主は俺を置いて大学に向かったようだった。
『その顔で講義受けたかったら来い。ポカリとウコン買っといたからしっかりのんどけ。今晩も泊まるようなら鍋にすっから言えよ。あと、目冷やすなら冷凍庫に…』
こたつの上の書き置きを読んで置かれたペットボトルとウコンの力を見て、ジャンの面倒見の良さにウケて頭痛に苦しんだ。

笑うこともできる。
話したことですっきりしたのか、心の澱も落ち着いていた。
今度飯でも奢んねえとなと独りごちて、渇いた喉をポカリで潤す。
傍らに放っておいたケータイを手に取り、リヴァイさんからの連絡がないことを確認して元に戻した。
…そりゃそうだ。
けんかの後はいつも俺から折れていたし、別れ話って言ってもほぼ一方的に俺がまくしたてただけだ。
リヴァイさんも相当怒ってたから、あっちから連絡をよこすなんて思えない。
なのにまだ期待を捨てきれないなんて…女々しすぎるにもほどがある。
いいかげんちゃんと断ち切らないと。
そう思って目を細めた視線の先、右手にはまった指輪が目についた。
…これも、いいかげん外さないとな。
ゆっくりと引き抜き、ジーンズのポケットにしまった。

吐き気と頭痛が少しマシになり洗面台に向かうと、見事に人相の変わった俺がいた。
顔はむくみ、目はぼってりしていて半分ほどしか開いてない。
「うわ…これはひでえ……」
軽く顔を洗った後、保冷剤を拝借して目元にあてる。
午後からだけでも講義に出られればと思っていたけど、こんな顔では誰に何を言われるか。
からかわれるくらいならまだしも、気を遣わせるのもうれしくはない。
潔く自主休講にして、荷物でも取りに行くか。
休日はほとんどバイト入れてしまっているし、昼間のうちならリヴァイさんとかち合うことはまずないだろうし。
そう考えた俺はジャンにその旨を連絡して、二日酔いが落ち着くのを待って家へ向かった。



もともとここはリヴァイさんの住んでいたマンションだ。
親の転勤で引っ越しばかりしていた俺が、再度の転勤を機に転がり込んだ形だった。
そんな風だから大きな荷物はないし、あったとしてもトランクルームでも借りればいいやと考えていた。
けれど取り出した品を見るたび、その考えが甘かったことを悟る。
3年という月日は思ったより長く、俺の持ち物はすべからくリヴァイさんとの思い出とともにあった。
気に入りの服も、小物でさえも。

このコートとマフラーつけて2人でいろんなところに行ったし、スノボのセットはリヴァイさんとしか使ったことがない。
このスーツは選び方のわからない俺にリヴァイさんが一式見立ててくれたもので、試着室の中でこっそりと触れるだけのキスをしたのを覚えてる。
引き出しの中に大事にしまってあったこの腕時計は、俺がバイトの初給料で買ったプレゼントのお礼にと、その10倍以上する店に連れていかれた時のものだ。
値札見て目を白黒させる俺に、一つくらいいいもん持ってても罰は当たらんと、腕にひとつひとつ嵌めては似合うものを選んでくれた。
窓辺に並ぶ不つり合いなぬいぐるみたちは、2人で旅に出るたびに買い揃えたものだ。
旅先でのささいな喧嘩のあと仲直りした時に、リヴァイさんからその地で有名なティデベアをもらったのが始まりだった。
あまりの似合わなさに思わず吹き出して、それ以来旅行とご当地のぬいぐるみ購入は俺たちのセットになった。
リヴァイさんの帰りが遅い夜に抱えて眠ることもあるほど、気に入っていたものもある。
普段使ってるシャワージェルだって、2人して店頭で香りと使用感を確かめあってお互いに合うものを買ったんだった。
手を泡だらけにして、香りが混じって結局どれがどれだかわからなくなって初日はそのまま帰ったっけ。
2人で出かける機会が減ってからも、俺が新調した服をリヴァイさんが気に入って、はからずもペアになったものもある。
あれも、これも。
いつまでもひきずってしまいそうで、2人の記憶の染みついたものは持ち出せない。
なるべく当たり障りのない品ばかりを集めてかばんに詰めていけば、学校の教材と少しの日用品にわずかな衣服、それだけしかなかった。

俺からリヴァイさんを省いた持ち物は、なんてちっぽけなんだろう。
スポーツバッグの、半分も埋まらない。
それ以外すべて、一緒に過ごした温かな日々が詰まっていた。
何度浮気をされたって、何度切ない思いを覚えたって。
それ以上に幸せなことでいっぱい溢れていた。

これだって。
ポケットから今朝外した指輪を手のひらに取り出して眺めた。
2人のイニシャルの入ったそれを手にしたのは、俺が18になった日のことだ。
いい虫よけになるとリヴァイさんは左の薬指にはめて、当時高校を卒業したばかりだった俺はあまりの気恥しさにろくに動けず、手を取られるまま同じ指に嵌めてもらった。
俺といる時だけなのかもしれないけれど、今でもリヴァイさんの指輪は左手におさまっている。


失って、本当にいいのだろうか。
リヴァイさんを、この想いを、2人で過ごした思い出たちを。
今日を限りに全部に蓋をして、俺はちゃんと歩いていけるんだろうか。
他の誰かを、こんな風に愛することができるのだろうか。
別れた後、ぽっかりと空くだろう心が満たされるなんてことは。
この先本当に訪れるのだろうか。

もう一度ぐるりと部屋を見渡す。
ベッドへ視線を送れば、昨日味わった苦い思いが首をもたげた。
だからといって、このまま続けていけるのか。
向けられる温かなまなざし、そっけないようでいて優しい言葉、抱き留められる力強い腕。
すぐにでも思い出せるそれらが、同時に他の誰かに向けられているかもしれないのに?
リヴァイさんから与えられる温かなものが、単なる浮気の罪滅ぼしなのかもしれないのに?
縋ったところで、リヴァイさんの方から別れを切り出されるかもしれないのに?
これから先もそんなあきらめと不安を抱えて生きていくのか。
…でももし今回のことで改善されるなら、俺は……

「外してんじゃねえよ」
いるはずのない声がして振り返ると、私服姿のリヴァイさんが部屋の入口に手をかけて立っていた。

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