エレリ本

□記念日という名の何でもない日 エレリ
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「…こいつはすげえな。音声だけで抜けるんじゃないか」
「ムダ口はいいからさっさと編集しろ」
ヤニくさい狭い室内にこもる空気に眉を顰め、持参したハンカチで口と鼻を覆う。

俺はあの場を離れた後、その足でナイルの事務所に向かった。
「あのな、興信所は何でも屋じゃねえぞ。だいたいうちは企業向けであってだなあ…」
「こんなクソ汚ねえ事務所に客が来るとも思えねえがな」
「あいっかわらずだなオイ…」

「早くしねえとエレンが帰ってくる、手筈通りにやれ」
俺は申し訳程度に出されたコーヒーにちらりと目を向けるとナイルを顎で示した。
ナイルは小さく舌打ちしてPCに向き直り、何やら作業を始める。
キルシュタインが来る前にあらかじめ撮っておいた無音画像に、これまで撮りためた音声データを切り貼りする作業らしいが、詳しいことはわからん。

「だいたいこいつ元部下なんだろ?情に厚いはずのおまえが、ひどいことするもんだ」
「記憶がない上に俺とエレンの邪魔をしようとした。…もう部下でも何でもねえよ」
「ハッ!言うねえ」
ナイルは咥えていた煙草の灰を落とし、細く煙を吐いた。
「…俺が推察するに、この世界はあの時代に死んでいった順番に生まれ変わってる。俺はさっさとくたばったクチだが…おまえらの年齢差を思えば、そういうことなんだろうよ」
だからおまえが変わっちまうのも無理はない、そう言って再び煙草を咥え作業に戻った。
静かな室内に無機質な作業音と、たまに吐き出される吐息だけが響く。
俺はその間、組んだ手の隙間からコーヒーの液面に映った幼い自分を見ていた。



かつてエレンは言った。
生まれ変わりを信じるかと。
生まれ変わって、何の責務もしがらみもない場所で一緒に生きていけたら幸せだと。
あいつを殺さなければならなくなった時、俺は言った。
俺も一緒に連れて行ってくれと。

あなたはまだ死ぬ時ではない、自殺すれば来世で会えなくなる、そう言われて俺は生きた。
何の確証もなく、縋る神もなく、ただその言葉をよすがに俺は生きた。

あいつは知らねえ。
俺がその15年を、どういう風に過ごしてきたのか。
俺は知らねえ。
先に生まれ落ちたエレンが、この世界で一人どんな風に生きてきたのかを。

だから今生で過ごした日々の中でエレンが弟に対する親愛の情をこじらせてしまったとしても、たとえ困らせたって、俺から手を離す気は毛頭なかった。


伸ばした手を払いのけられた時の、汚いものを見るようなエレンの目がよぎる。
あんな目は初めてだった。
今生でも、あの時代でもだ。
エレンのことだから、少し甘えたり反省した様子を見せればお仕置きも終わるだろうと踏んでいたのに、エレンから触れてくることもなければ部屋にも来ない。
さすがにおかしいと調べてみればこのざまだ。
自分でまいた種とはいえ、とんだしっぺ返しを食らった。

組んだ指先がカタカタと震え、振り払いたくて俺は両の手に力を込めた。
大丈夫だ、それも今日で終わる。



できたぞという声に立ち上がり、画面を確認する。
不自然なところはない。
先走りで濡れた股間もうまく修正が施され、さも今脱がされたような絵に仕上がっていた。
「…悪くないな。短時間でこれなら、業務内容見直した方がいいんじゃねえか」
「ばか言え、後にも先にもこれきりだよ。すげえ面倒だ」
ナイルは何本目かの煙草を灰皿に押しつけ、俺の腕をするりと撫でた。
「次にやる時があるとすれば…そうだな、報酬にはこっちをもらおうか」
「今回の件で懲りた。2度目はねえよ」
そう言って取られた腕を離すと、ナイルは飼われてるな、と笑った。
編集前のデータが残されていないことを確認し、事務所を出る。
エレンの帰宅まで、あと1時間を切っていた。

家に着くと脱いだ衣服を洗濯機に放り込んで回し、シャワーを浴びて煙草の匂いと先走りで汚れた体を洗い落とす。
髪を乾かす時間はなく、洗い髪のままで暗い部屋の中ベッドに潜り込んだ。
息を殺し、獣のようにその時を待つ。
エレンが帰宅し、異変に気づき、俺の部屋に入るその時まで──


「…リヴァイ?」
比喩でなく、大きく体が飛び跳ねた。
ゆっくりと起き上り、エレンに向き直る。
エレンの反応が怖くて、怖くて、仕方がなかった。
おびえた顔の、ぶたれて赤くなった頬は余計にリアルに映ったのかもしれない。
エレンは慌てて俺に駆け寄った。
「…っ!どうしたんだそれ!誰にやられた?他に、けがは…」
頬に、体に、久々に触れられるエレンの手がうれしくて俺は泣いた。
そのまましがみつきたくて手を伸ばしたけれど、拒絶されたあの目がよぎって途中で下ろす。
エレンの顔がくしゃりと歪み、もういいから、と俺をかき抱いた。

エレン、エレン、えれん!
必死に手を伸ばしてぎゅうとしがみつく。
エレンの暖かな腕が、においが、頭を撫でる優しげな動きが。
ここに戻ってこれたことが本当にうれしかった。

「リヴァイ、このままじゃ風邪をひいちゃうよ。乾かしてあげるから、おいで」
俺が落ち着くのを待って、エレンは俺の手を引いて洗面所に向かった。
まだごうごうと音を立てている洗濯機のそばで、俺はエレンに優しく髪を乾かしてもらう。
鏡越しに目が合い、その慈愛に満ちた表情に泣きそうになって目を伏せた。
「ご飯、何が食べたい?」
「……なにか、あったまるもの」
「シチューで、いい?」
こくりと頷いた。

エレンが食事の支度をしている間、洗濯物を干している間、俺はずっと腰にひっついていた。
夕食はぽろぽろ涙をこぼしながら食べた。
こんな、庇護欲を煽るようなことをしたら逆効果なのに、それまでの反動で止まらなかった。
片づけも済んでエレンがお風呂に入る段になり、俺はエレンの服を握りしめ、努めて幼い印象にならないように言った。


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