企画小説置き場

□こずかたの空
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衣擦れの音とともに目覚めると、隣でまどろんでいたはずの男がスーツに身を包むのが見えた。
昨夜遅くまで貪られた体はまだだるく、すぐには起き上がれそうもなくてそのままで声をかける。

「…リヴァイさん?今日お休みでは?」
「急な仕事が入った」
俺の声にちらりと目を走らせたのち、襟を立ててタイを締め、ジャケットへと袖を通していく。
上質な仕立てのそれは引き締まった体を覆い隠し、涼しげな目元も相まってストイックな印象を抱かせる。
寝起きの回らない頭で惚けたように眺めていると、少しだけ固い声が耳に届いた。
「一緒にでかける予定だったのに、すまないな」
どうやら気にやませてしまったらしい。

腕時計を手にしてこちらに向き直るのを、いえお仕事ですからと返して起き上がり、その胸元を飾る違和感に気がついた。
「あれ、リヴァイさん。そのシャツならこっちのネクタイの方が」
「…いや、今日はこれでいい」
そう言ってわずかに目を伏せ、タイの根元に手をやる。
スーツにもジャケットにも合わないそれを選ぶ理由を、固辞されるその理由を、俺はすでに知っていた。


……ああ、また始まるのか。
腹の底が一気に冷える音がする。
なるべく顔に出さないように努めてはいるが、目には表れているかもしれない。
そこまで器用にはなれなかった。

「…夕飯は、どうされます」
聞く必要はないだろうと思うのに、かすかな望みをかけてしまうのはいつものことだ。
「遅くなるだろうから食ってくる」
「そう、ですか」
急いでいるから朝食もいいと足早に出ていこうとする相手を、シャツだけ羽織って見送りに立つ。
玄関口に置かれた時計の針は、7時を回るかというところを指している。
初夏とは言えまだ早い朝の空気は冷たく、むき出しの脚からじわじわと体温を奪っていった。
「行ってくる」
「がんばって、ください」

はは、なにをだ。
心の中で自嘲しながらも、どうにか笑って返す。
俺を抱いたその足で女のところに向かうんですね。
怒りとも悲しみともつかない、皮肉めいた言葉は音にならず。

完全にドアが閉まってから、涙の代わりか昨夜の名残が腿を伝った。





リヴァイさんを見送った後、重い気分をすぐに振り払えるとは思えず、俺は再びベッドへと足を向けた。
もそもそと潜り込めば2人分の体温を残したシーツが迎え入れてくれるけれど、ほんの少し前まで確かにあったはずの甘やかな空気はどこからも感じ取れそうにない。
昨夜までそんなそぶりなかったのにな。
いっそのこと全部気づかないでいられたらいいのに、こういうことばかりうまくいかない。


つきあい始めて今年で3年、一緒に暮らすようになって2年と少し。
社会人のリヴァイさんと大学生の俺とでは、いろいろなことがかみ合わない。
休みの予定に食べ物の好み、お金と時間の使い方や、物事に対する価値観なんかも。
それは社会的な立場だけじゃなくて、一回りも違う年齢や育った環境も影響しているんだろう。
手探りで互いを理解し、すり合わせていく時期はとうに過ぎた。
あとは何を優先し、どこまでを許容できるかってだけだ。

時折垣間見える女の影以外、リヴァイさんに不満はない。
掃除には厳しいところもあるけれど部屋がきれいにこしたことはないし、揚げ物は胃がもたれると言いつつ残さず食べてくれる。
付き合いたてほどでないにしろ、セックスはまめだし優しい。
体の相性も、いいと思う。
甘やかすばかりじゃなく、俺が至らないところはちゃんと気づかせてくれるのもありがたい。
女の影さえなければとは思うけれど、俺もリヴァイさんも男だから。
これから先もリヴァイさんと一緒にいたいと願うなら、こういうことには慣れるしかない。

そうは言っても。
今日は久しぶりに2人でゆっくり過ごせる休日だったのにな。
ぽっかりと空いた心と時間とを、どう扱っていいかわからなくなる。
かといって無為に過ごすのもなんとなく癪で、くさくさした思いを振り払うように勢いをつけて起き上がった。
ドロドロのシーツを剥していつものようにシャワーを浴び、遅い朝食をとる。
トーストを齧りながらケータイの電話帳を一通りスクロールして、途中で嫌になってテーブルに放った。

誰と過ごしたところで気がまぎれるとも思えなかった。
ふうと息をつき力の抜けるままテーブルへと突っ伏すれば、窓越しに抜けるような青い空と、ひとすじの飛行機雲が見える。

…久しぶりに遠乗りでもしようか。
ふと海が見たくなって、俺は気に入りの場所目当てにバイクにまたがった。



向かう先は、一見してそれと分からないよう斜面に建てられた、海沿いの小さなカフェだ。
著名な建築家が設計したらしく外観も内装もこだわっていて、テラスからも屋内からも海が一望できるつくりになっているのだが、通りがかっただけではまずたどり着けないだろう。
隠れ家のような佇まいのその店はいつも静かで、ゆったりと過ごすのに最適な場所だった。

見つけたのは本当に偶然。
リヴァイさんと海を見に行ったときに、申し訳程度の小さな看板を目にしたからだ。
どっちが先に見つけたんだったか、看板も店自体も本当にわかりづらくて、こんなじゃ誰も気づけないだろって笑いあったのを覚えてる。
テラスで波音を聞きながら過ごすのも、室内で暖炉の暖かな火と海を眺めるのも、穏やかに2人共有する時間をも、まるで波間に反射する光みたいにキラキラ輝いて見えた。
そういやここ1年ほど2人で訪れたことはないけれど、この店の空気が好きで、俺は今でもたまに利用している。

到着してメットを脱ぎ、磯の香りを胸いっぱいに吸い込む。
わずかにコーヒーの匂いが混じったその空気に心がはやる。
自然と頬のこわばりもほぐれていき、どうにか気持ちを入れ替えれそうだと安堵した。

斜面の中腹にある入口まで狭い階段を降りていくと、数段降りたところで、入り口から客が出てくるのが見えた。
はじめは単に、その狭い階段を行き交うのにいったん戻るべきかと考え足を止めたが、女性客の後を追うように出てきた男を目にして完全に固まった。

その男の背格好に、ひどく見覚えがあった。
スーツとシャツに不似合のタイにいたっては、今朝見たばかりの代物だ。
向こうはまだこちらに気づいておらず、俺は慌てて踵を返し、停まっていた車の影へと身を潜めた。
女は店を気に入ったんだろう、ずいぶんとご満悦の様子で、男の手を絡めとっている。
男の方もそれを諌めることはせず、2,3言葉を交わして通り過ぎていった。
さすがに顔を確かめることはできなかったが、顔なんて見なくとも、その体躯と声だけで俺はあなただとわかる。


なんで。
なんで俺が隠れなきゃいけないんだ。
なんで俺は、俺と過ごすはずだった約束をほごにして、別の女と会っているやつの顔を立ててるんだ。
──なんでリヴァイさんは、よりによってこの店を選んだんだっ!

向こうにしてみれば雰囲気のいい女性の喜びそうな店として選んだんだろうけど、俺は、せめて俺とつき合ってる間は、誰も連れてきてほしくなかった。
こんなところで出くわして、宝物みたいな空間を奪ってほしくなかった。
こんな形でまざまざと見せつけられたくなかった。


2人の前に出て行って皮肉の一つでも言ってやりたいのに、屈めた身は竦んで動きそうもない。
声を出さないようにとあてた指は震え、白んで、冷たく。
わんわんと鳴る耳が、言葉少なな彼の声を拾う。

見慣れた車を見送って、飲み込む嗚咽で吐きそうになり、店に入る気にもなれずにのろのろとメットをかぶった。
この後2人はどこへ向かったんだろう。
俺の知っているところか、俺も知らないところか。
この近くにもう一つ気に入りの場所があったけど、そこでも鉢合わせるのはごめんだった。

もう何も考えたくなくて、どこにも出かけたくなくて、バイクを飛ばして家路を急ぐ。
音楽をガンガンにかけて、バカみたいに掃除して、ムダに手間のかかるレシピにとりかかって。
何時間もかけて出来上がった料理をこれでもかと豪勢に盛りつけ、間をあけずそのまま箸をつける。
もくもくと食べていたその皿に、ぽたりと涙が落ちた。


───惨めだ。


こんな風にないがしろにされて、俺はいつまで続けるつもりなんだろう。
リヴァイさんの中で俺の存在が今以上に大きくなることはきっともうない。
もともとモテる人だったし、ノーマルだから女性を抱きたくなるのは当然だし、適齢期で所帯を持ちたいと考えるのも自然なことだ。
だからこれは仕方のないことだと自分に言い聞かせて、特に責めるようなことはしてこなかった。
それがよくなかったのかな。
浮気の回数が増えたのか隠す必要性を感じなくなったのか、俺がそれと気づく回数も増えていった。

一方で、特定の誰かに夢中になるということはなく、俺との関係はそのままだったから、俺を一番に愛してくれているのかもと、どこかで期待していたのも事実だ。
この部屋に足を踏み入れられるのは俺だけだったし、どんなに遅くなってもリヴァイさんはこの家に帰ってきてたから。
それでも、俺が何も感じないわけじゃない。
傷つかないわけないのに。


一度零れた涙は堰を切ったようにあふれ出て、震えて口の中のものをうまく飲み下せない。
ゴムのようなそれをなんとか飲み込んで、食べきれない分をしまって、ひとり熱い湯につかる。
リヴァイさんは今夜も遅くに移り香をべったりつけてくるか、違う石鹸の匂いをさせて帰宅するんだろう。
そんな人と顔を合わせる気にはなれず、その日は早々にベッドに入った。


そうして夢も見ずに寝ていた俺は、後ろから抱き寄せられてうっすらと覚醒した。
リヴァイさんは浮気したその日、俺を抱き込んで足を絡め、うなじか首筋にキスをする。
俺が起きて応じればセックスして、起きなければそのまま眠るのだ。

浮気した日のみなのか、そうでない日もなのかはわからない。
何も知らないでいた頃は大事にされているように感じていたけれど、今となってはそれと気づかなかった日も疑ってしまう、嫌な癖だった。
おさまりの良い位置を見つけようとしているのか、俺が起きるのを期待しているのか、肩口に額をすり寄せるのがわかる。
反応がないのを見てとったのだろう。
抱き込んで眠ろうとするリヴァイさんを背後に感じ、俺は静かに頬を濡らした。



翌朝、昨日大量に作った料理を2つの弁当箱に詰めていると、朝の支度を済ませたリヴァイさんからあるものを受け取った。
「昨日は悪かった。おまえそこ気に入ってただろう。次の休みにでもどうだ」
謝罪とともに渡されたのは、あの店の近くにある水族館の優待券だった。
聞けば部下から貰ったらしいが、これは、遅い時間の入館客へと配布されているものでもあった。

ああやっぱり、そっちにも足を延ばしたんだな…
力なく瞼が下りるのが自分でもわかる。

また一つ大切な場所を犯されたようで鼻の奥がツンとして、そうですねとだけ何とか答えた。


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