三井長編 続編・番外編

□En confiance 4
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「どうした?」

そう言って三井は真っ直ぐに紫帆を見つめているのに、紫帆はその目にどう応えていいかわからず、思わず逸らした。

「ううん、何でも。なぜ?」
「ぼんやりしてっからさ」と三井が怪訝な顔を向ける。
「上司が代わったって言ってたよな? やっかいなヤツとか?」
「その逆。すごく優秀な人」
「いくつ?」
「31歳って言ってたかな」
「へえ」

そんな何気ない会話をしていると、構えていた気持ちもいくらか軽くなったような気がした。いつもの空気が浸透してきて、余計なものを拭い去ってくれる。自分で悪い方に仮定して、その想像にうろたえるなんてバカバカしい。三井は今こうして、自分と向かい合ってくれているではないか。

「やっぱ4月は忙しいよなー」
「湘北にも行けないくらいだもんね」
「体、なまっちまう」

紫帆はふっと頬を緩ませて、「2年のブランクに比べたら平気だよ」と冗談っぽく言えば、三井はいくらか苦笑交じりに頷く。

「あの若さはもうねーなあ」
「ヤンチャしちゃう若さ?」

「そ。今や仕事に追われる社会人。いや、期日に追われるの間違いだな」と三井は手帳をめくった。
その手元に紫帆は何気なく視線を落として、ハッとした。大きめの付箋に『提案書締め切り』だの『月次目標要添付』だの書いたものが張り付けてあるが、明らかに三井の字ではない。
だが、見覚えのある綺麗な文字―――

たった今感じていた、和やかな気持ちは、すでにあっさりと崩れていた。そしてまた陰鬱とした感情がチラチラと見え隠れする。しかもそれは実体がない。


「明日はあっち行くけど、来週末はまず無理だな」
「そう……」
「その後は少し落ち着くと思うから」と紫帆の頭を軽く撫でながら三井は立ち上がり、カバンをクロゼット脇に置いた。

三井は変わっていない。彼は何も。むしろ時間が取れないことを申し訳ないと思うのか、今まで以上に優しい。
それなのに……市村の気持ちを感じてからつきまとって離れない不安や、繰り返す気持ちの浮き沈みやバカげた憶測。そんなものに簡単に揺すぶられる自分がイヤだ。
もうすぐ三井と付き合って1年たつというのに、何をやっているんだか。紫帆は自分を持て余していた。

「お風呂入ってくるね」
「オレも入ろうかな」

「寿はもう入ったじゃない……」と閉口するように断ってしまったけれど、一緒に入ればよかったかもしれない。きっと温かい湯に一緒に浸かれば、すさんだ気持ちがほぐれただろう。空回りせず、素直になれただろう。


静かだなと思っていたら、案の定、三井はベッドに寄りかかるように居眠りをしていた。疲れているんだ―――

紫帆は三井の短い前髪をそっとあげてみた。そこにキスを落とすと、軽く揺すってベッドに入るよう促す。言われるままに三井が横たわると、紫帆は部屋の電気を消して、自分もその隣に入った。

ごく自然に無意識に。三井は紫帆の身体をわきにかかえ込むように愛おし気に抱き、そのまま眠りに落ちていった。
その腕の温かさを感じながら、寝てしまおうとするほど、それが出来なくなっていく自分に、紫帆はひどく落胆した。
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