中編

□conte 01
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駅前の喧騒から逃れるように裏通りに入ったこの界隈には、派手さはないが気の利いた店が並んでいる。まだ日が暮れ始めたばかりで人通りは少ない。名前は記憶を辿りながら、一軒の店を目指した。
ウッド調の柔らかい外観に白地の看板が映える、女性同士でも入りやすい雰囲気の焼き鳥屋。以前からあった店だが、最近改装したそうだ。
営業時間前にもかかわらず、ここに来たのにはわけがあった。なんてことはない、一昨日の忘れものを取りにきたのである。

会社のIDカードがないことに早めに気付いて良かった。月曜の朝だったらパニックになっただろう。セキュリティにうるさい昨今、始末書ものに違いない。
心当たりは財布を出したこの店だったので、慌てて電話をすれば、拾ってくれているとのこと。助かった──

準備中の札がかかっていたが、ガラス越しに店内をうかがうと人影が見えた。そっと扉に手をかけるとなんなく開いたので、戸惑いながら「失礼します、あの」と声をかけた。

「あー、すんません、営業は五時半からなんすよ」
カウンターの中から声がかかった。
「いえ、あの、昨日お電話した者です。忘れ物の件で……」
「ああ、あれか。とりあえず中入って」

名前はドアを閉め、薄暗い店内に足を踏み入れた。カウンターには店員ではない、だが客でもなさそうな男がひとり座っていた。
店の人はなかなかに恰幅のよい体格をしており、仕込みの手を止めると「えっと、どこしまったっけな」と言いながら辺りを見回していたが、どうやら思い出したらしい。
「あ、貴重品だから事務所に持ってったんだ。ちょっと待っててな」
「はい、お仕事中にすみません」

奥に消えていく彼を見送ると、店内はしんと静まり返った。ひとりならまだしも、カウンターには見知らぬ男がいる。ぎこちない沈黙に居心地が悪い。

「そこ、座りなよ」
ふいにその男が口を開いた。
「あ、いえ、大丈夫です」
「そ? でもすぐになんか戻ってこないと思うぜ」
そう言うと彼はカウンターの中に入っていった。前髪をわずかに残し、きれいに後ろに流された髪に照明があたる。年は近いだろうか、まだ若い男だった。

「あの、事務所って遠いんですか……?」
「すぐ上」と2階を指さす。
「だけどきっとここぞとばかりに一服してから来ると思うんだわ、ここ禁煙にしちゃったからさ。あ、あんた、時間ヘーキ?」
「はい、それはまったく」
「そっか。わりいな」

謝られてしまった。そればかりでなく、彼は「どーぞ」とカウンターのひとつ空けた席にお茶を出してくれた。ここへという合図だった。促されるままに名前は座った。隣の隣に彼も座る。ビールを飲んでいたようだ。

「ありがとうございます……お店の方ですか?」
「だったら飲んでちゃマズイだろ。オレはあいつのダチで、まあ常連客ってヤツだな」
納得したように大きく頷くと、名前はお茶を口にした。喉が渇いていたのと少し気を落ち着かせるため。だが座ったものの、相変わらず所在ない。

「財布でも忘れた?」
男の問いかけに名前は改めて顔を向けた。眼光鋭く影のある雰囲気だが、かといって崩れた印象はなく物腰は柔らかい。よくわからないが、穏やかな話し口といい、怖い人でないことは確かなようだ。

「会社のIDカードをこちらで落としたみたいで。お恥ずかしながら……」
「みんな酒はいってっから、忘れモン落としモンなんかしょっちゅうさ。メガネとか入れ歯とか、そうそう、この間釣った魚をクーラーボックスごと忘れてった人いたなあ」
「……で、取りにきたんですか?」
「すぐに取りにいけないから食べちゃってくださいって言われて、オレはやめとけっつったんだけど、なんか怖えじゃん? なのにさっきのダチ、食い意地張ってっから、焼けば平気だってそこの炭火で」

やれやれといった具合に彼は肩をすくめ、「けどよ、最高に旨かった」とニヤリと頬を緩めた。笑うと意外に人懐っこい表情になる。
「結局食べたんですね」と名前もつられて笑った。その声からは緊張感がほどけていた。

「新メニューにしたいくらい旨くて── あっ、そうだ」
急に何かを思いついたらしき彼は名前を振り返ると、自分の前に置いてあった小皿を指して言った。鶏のモツ煮込みか何かのようだ。
「今、女性ウケするメニュー考えててさ、ちょっと味見してくんね?」
「え、私が?」
「もちろん、あんたぐらいがちょうどターゲット層。待ってて」

席をたつと、勝手知ったる様子で厨房スペースに立ち、やがて名前の前に皿に盛られた煮込みを差し出した。ねぎのたっぷり入った塩モツ煮。
「とりあえず食べてみてよ」と勧められ口にすれば、うん、美味しい。ごぼうの出汁が効いている。

「女性っていえばヘルシー志向っつうことで、塩麹に漬けてみたんだよな」
「さっぱり食べられてすごく美味しいです。何か足すとしたらもっとショウガ入っててもいいかな。柚子の風味いれるとか」
「ああ、柚子って女性好きだよな。柚子コショウとか」
「でも飲みにきてるときはヘルシーだけじゃなくて、やっぱりコッテリも欲しいな。ちょっと前のB級グルメに醤油だれで煮詰めたモツ煮ありましたよね」
「山梨の甲府鳥モツ煮だっけか」
「そうそう、それ。それにチーズたっぷりかけるくらいでもいいかも」
「チーズダッカルビ的な?」
「それいい。モツ煮『白』と『黒』って感じで両方あるといいですね」

食べ物の話は共通の話題として成立しやすく、盛り上がりやすい。さきほどまでの居心地の悪さが嘘のように、次から次へと和んだ空気をカウンターにもたらした。
彼のテンポのよい会話や気遣い、落ち着きのせいもあるかもしれない。その彼がプッと吹き出す。
「あんた、酒、好きだろ」
からかうような笑みが口角に浮かんだ。
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