藤真長編U

□conte 25
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椅子の高さを下げてから座り、鍵盤との距離を調節した。ダンパーペダルを軽く踏み、感触を確かめる。藤真はそんな茉莉子をピアノのわきに立ち見下ろしていたが、ふいに思い出したように口を開いた。

「あれ弾いてよ。えっと……英雄何とか。英雄セレナーデ……?」
「英雄……あ、ポロネーズ? ショパンの?」 
CMでも使われるくらい有名な曲だが、藤真がその曲名を知っていたことが驚きだ。少し違っていたけれど。主題の部分を流すと、「そう、それそれ」と嬉しそう。とにかく、リクエストが弾ける曲で良かったと思いながら、茉莉子は軽く座り直した。


数十秒の序奏のあと、第一主題に入った。リズミカルで勇壮な旋律が茉莉子によって高らかに奏でられるさまを間近にして、藤真は鳥肌がたった。開けられたグランドピアノの屋根の中では、時にすごい勢いでハンマーが弦を叩く。その冴え冴えとした音が耳に共鳴してやまない。
そして、いつの間にか集中して一心に弾く茉莉子の姿に、その真剣な眼差しに、目を奪われた。力強く抑揚をつけるたびに揺れる髪。曲調が変わるときに、ふと顔をあげる仕草。色っぽいな―― とそう思った。

最後の和音を弾き終わると、大きく息をついて茉莉子は腕をおろした。室内は凛とした静けさに包まれ、一瞬ののち、藤真の拍手が響く。

「すげーな。想像以上だった」
「ありがと。でも実はちょこちょこ間違えてる」

ホッとしたような照れた笑みをみせる茉莉子を、今度はかわいいなと藤真は思った。
演奏そのものは完璧ではなかったのかもしれない。だが藤真の耳にはしなやかにしっとりとなじみ、余韻を残すものがある。もっと聴いていたい、見ていたいと思わせる心地よさをもっている。幸せな気持ちになる。それは自分にとっての茉莉子の存在そのものと似ていた。

「この曲、けっこう体力つかうんだよね。左手のトリオの部分のオクターブ連続がきつい」と茉莉子は左手をほぐすように押さえた。

「ピアノ、何年やってた?」
「大学入るまでだから、15年ぐらい」
「もったいねえな」
「この程度の人はそこらじゅうにゴロゴロいるよ。掃いて捨てるほどね」

そう言って、茉莉子は今度はゆったりと落ち着いたメロディーを流し弾く。ドビュッシーの『月の光』透明感のある美しい音がこぼれた。

「数えきれないほどいるとしても……」
ひと呼吸おいてから、「オレは茉莉子がいい」と藤真は続けた。
「茉莉子が好きだ」
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