藤真長編U

□La Saint-Valentin
1ページ/1ページ


休日だというのに早起きした。
キッチンに朝日が差し込む時間から奮闘しているというのに、どうにも間に合いそうにない。読みが甘かった。

練習試合は午後から。集合は13時だと聞いているが、きっと藤真はそれより1時間以上前に行くつもりだろう。
彼の部屋に突撃して驚かせたかったのだが、この分だとすれ違ってしまう危険性もある。計画変更もやむを得ない。
オーブンで生地を発酵させている間に、「今からうちに来れない?」と電話し、今まで以上に慌ただしく茉莉子は動いた。


「お、すげえいい匂い!」
玄関を開けると、挨拶もそこそこに藤真が感嘆の声をあげた。
「ごめんね、呼びつけて。本当は焼き立てを届けるつもりだったんだけど」
「来たほうがもっと焼き立てで食えるじゃん」

ダイニングテーブルに座ってもらい、すでに焼き上がっているパンを並べれば、いただきますと藤真はさっそくチーズのパンにかじりつく。ポテトサラダも作っておいた。茹で野菜やマヨネーズは消化がよく、酢はスタミナアップや疲労回復に効果的らしい。

「出来立てはやっぱ旨いな、何個でも食えそう」
「ちょっと待って。もう一種類作ってるの」

茉莉子は急いで次のパンに照り用の卵を塗ってオーブンに入れた。実はこちらが藤真に一番食べてほしいものだったりする。
「10分ちょっとで出来るから」
顔をあげると、藤真と目が合った。彼は片方の唇の端だけあげてみせる。

「いいね、エプロン姿って。今度オレんちでもしてよ」
「なんか、いやらしい意味に聞こえる」
「そういう意味だけど?」
「気が向いたらね」

恥ずかしい要求をされそうだが、少しぐらい応えてあげてもいいかもしれない。
今日はそんな甘い気分になる日──

オーブンを開ければ、香ばしい香りが広がる。ほっこりと美味しそうな焼き色がつき、思った通りに仕上がっていることに茉莉子はホッとした。
「はい、藤真くんに」と目の前に置いたのは、ハート型に成型したハムロール。今日は2月14日 バレンタインデーだ。
期待や予想が少しはあっただろう、だが、嬉しさを隠しきれないといった様子で藤真は表情を崩した。

「食べていい?」
「もちろん」
手に取って少し眺め、ガブリといった次の瞬間、あちっ!と口を離した。
「このハート、熱すぎだろ!」
「ふふ、私の『き・も・ち』伝わった?」

そして、用意しておいたチョコレートも渡した。きっと彼は今日、かなりの数を貰うに違いない。けれど、こんな風に焼き立てのハート(型)を届けられるのは自分だけだと思う。とにかく何か自分にしか出来ないことをしたかった。そして、これは今思いついたことなのだが── 

「藤真くん、時間大丈夫?」
「余裕」

「じゃ、ちょっと来て」とピアノのある部屋に連れていくと、その前に座った。彼のために曲を贈る、これも自分にしか出来ないことだろう。
リストの『愛の夢』第三番
題名の通りメロディックな曲で、今の自分にはぴったりに思える。しかも藤真を想って弾くと、涙がこみあげてきそうになり、そんな自分に驚いた。
いつもこんな風に感情を込めて心から弾くことができたら、今ごろピアノの道に進んでいたかもしれない── と茉莉子は思った。




案の定、試合後はどこの誰だかわからない相手からも含め、貰ったチョコレートで紙袋が一杯になった。
持ち帰って茉莉子の目に触れるのもなんだろうと、藤真はとりあえずロッカーに押し込んだ。

「今んとこ義理チョコしか貰ってねえ! あ、茉莉子からも貰ったぜ。おまえが他の女の子に囲まれてる間に」
矢野が恨めしそうな顔を向けてきた。
「だから義理だろ? オレはもっといいモン、とっくに貰ってっから」
「本命はいいよなー。なんだよ、私を食べて?とか?」
「おかげで舌、ヤケドした」

==========================

ホワイトデーのお話
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ