大学編 流川

□conte 01
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見慣れた風景が淡い桃色に彩られ、ゆっくりとだが確実に春の訪れを告げる。まるで呼吸を忘れていたかのように、玲は大きく息を吸い込んだ。
東京で暮らすようになってからちょうど1年が経つ。仙道が渡米したのは、去年の夏のこと。想いも記憶も押し込めて、目の前にあることに没頭していれば、あっという間に日々は過ぎゆく。何があろうと時の流れは容赦ない。

世の中は新生活のスタートの季節のようだ。進学、就職、転職と理由はさまざまだろう。
夕方帰宅すると、マンションの前に引越業者のトラックが横付けされていた。わずかばかりの家財道具が開け放った扉に吸い込まれるように運び込まれる。その脇を通り抜け、養生されたエレベーターに乗り込み、降りてもまだ保護シートが敷かれているところを見ると、どうやらこの階への引越しらしい。
エレベーターを境に向こう側はワンルームの単身者向け、こちら側は若干広めの間取りが並ぶつくりで、玲は2LDKに姉とふたりで住んでいる。新たな入居者は単身者側で、一番奥の部屋のドアが開いているのが見えた。

買ってきた食材を冷蔵庫にしまったあと、ひと息つこうと電気ケトルのスイッチを入れた。豆から抽出するミル付きのコーヒーメーカーもあるのだが、全自動とはいえ少々面倒くさい。一人分ならば、最近はもっぱら溶かすだけのインスタントだ。風味の点で物足りないが、早くて手軽。自分だけならそれで充分だった。


適当に作った夕飯を食べ終わった頃、姉が帰ってきた。ただいまと言いながら、缶ビールを取り出し煽ると、ぷはぁと息をつく。

「生き返ったあ。ねえ、なんか食べるものある?」
「ここ居酒屋じゃないんだけど……豚キムチ炒めでいい?」
「それって居酒屋じゃん。いいね、よろしく」

唐辛子とコチュジャンを大量に加えて激辛にしてやろうか。そんな少しの悪意とともに、キッチンに入って用意をする。

「一番奥の部屋、新しい人はいったみたいね」
「あー、今日、引越ししてた」
「見かけたんだけど、すごい背の高い男の子だったよ」
「ふーん」
「彰くんぐらいありそうだったな」

姉にとって背が高い比較対象といえば、仙道なのだろう。久しぶりにその名が口にのぼった。だがイメージは出来ても、もはやその高さをリアルに思い出せない。へえ……とだけ玲は答えた。


翌日、午後からのバイトのため、玲は昼前に家を出た。ぽかぽかと温かな陽気に包まれて、柔らかな風が気持ちいい。
エレベーターに向かいながら、ふと顔をあげると、向こうから歩いてくる男が目に入った。その一瞥ではわからなかった。だが、近づくにつれ違和感が──

「あ……」
驚かずにはいられない。それは相手も同じだったようだ。明らかに驚愕の表情。

「まさか……昨日引越してきたのって流川く…ん?」
「なんで、あんた……」
「私、506号室なんだけど」

沈黙が流れる中、マジかよという彼の心の声が聞こえるような気がした。それにしても、お互い状況を理解したのはいいが、何ともいえない居心地の悪さを覚える。

「えっと、私のことわかる……?」
コクリと流川は頷いた。
「藤真…さんと仙道」
簡潔すぎるが要点は押さえている。だが、きっと名前は知らないだろう。エレベーターのボタンを押していないことに気づいて、下りを押しながら「芹沢です。芹沢玲。同じとこ住むんだから名前ぐらい覚えてよね」と言えば、流川は首から上だけで応えた。

「大学どこ?」
「J大っす」
「魚住さんのライバルだった湘北のキャプテンいるよね、赤木さんだっけ」
「あと宮城先輩も」
「ああ、そうそう。そっかそこに加わるのか」

1階に着いた。年下だからか、それともレディファーストの精神が少しはあるのか、前にいた流川がドアを押さえてくれるから玲が先に降りた。じゃあ、と行こうとすると、ふいに流川に呼び止められた。

「玲さん……」
苗字は覚えられなかったようだ。名前で呼ばれた。玲はゆっくりと振り向いた。見下ろしてくる流川と目があった。
「一番近いコンビニ、どこすか」
「私、駅行くんだけど、その途中だから来て」

一歩後ろを流川がついてくる。静かに、だが圧倒的な存在感。その大きな気配は感じずにいられない。それにしても、噂には聞いていたが寡黙な男だ。

「スーパーは駅前のが一番近いかな」
頷いているらしき様子。
「他に何かわかんないことある?」
「今はねえっす」
「そ。ま、何かあれば聞いて」
「ウス」

そしてコンビニの前で別れる時に、流川は「どうも……」とだけ発した。ニコリともせず。その不愛想ぶりに感心してしまう。玲は小さく肩をすくめた。

そもそも彼とはどういう知り合いなのか、考えてみれば不思議だ。これといった繋がりはなく、面識がある程度で、知り合いともいえないのかもしれない。差し当たって認知はされていたようだけど。まあ、これからはこうやって顔を合わせる機会もあるだろう。
玲は携帯を取り出し、何やら打ち込み送信した。きっと夜にでもどういうことだと電話がかかってくるに違いない、藤真から──
愉快そうな笑みを口の端に浮かべると、玲は駅に向かった。
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