大学編 流川

□conte 03
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コツコツと床を打つハイヒールの音が背中に聞こえた。郵便受けから身体を起こした流川が振り返ると、知らない年上の女が立っていた。

「あー、あなた、流川くんでしょ。うん、絶対そう、流川くん」

こちらが返事をする前に決めつけられた。確かにその通りだが、この女は誰だ。見覚えがあるような気がしなくもない。女は愉快そうに笑うと、「玲の姉よ」と名乗った。
「藤真健司の従姉妹って言えばわかる?」
「ああ」
腑に落ちた流川は、軽く頭を下げた。
「もう、素気ないわねぇ。あなたもバスケ一筋だって聞いてるけど」

流川が開けたオートロックに躊躇なく彼女も入ってくるが、その足は少しふらついている。どうやら酔っているようだ。ちょうど1階に停まっていたエレベーターにともに乗り込んだ。

「やっぱり大きいのね。ん……それに、あらイケメン、健司とはまた違ったタイプ。モテるでしょ」
いつも思うが、その問いにどう答えろというのだろう。というより答えないことにしている。だが見上げてくる目は好奇心を隠そうともしない。

「あ、もしかして女はもう懲り懲り?って感じでもないか。ふうん、おもしろい」
何がおもしろいのかさっぱりだが、質問攻めにされなかったことにホッとしながら、後から続いてエレベーターを降りようとしたその時、彼女がよろけ、咄嗟に流川は腕を掴んだ。靴のヒールがフロアとの溝に挟まったようだ。

「痛っーい」
「平気っすか……」
「足、捻ったかも」
そのまま支えていてやると、歩きだそうとするが痛むらしい。仕方がない。
「妹サンのトコ、行くんすよね」
「そう、っていうか私もそこの住人だから。ふたりで住んでんの」
知らなかった、だが知る由もないのだから当然だ。

ドアを開けてくれた玲は、わかりやすく驚きの表情になった。
「えっ……どうしたの」
「そこでコケちゃって、彼に助けてもらった」
そう言って姉は踏み出したが、再び足を取られ、その反動で流川もろとも玄関に倒れ込んだ。
「大丈夫!? ごめん、流川くん!」
流川が下敷きになっており、慌てて玲が姉を起こそうとする。
「ん、酒臭い……やだ、酔ってんの!? もう、ほんとごめんね」

脇に細いヒールの靴が転がっていた。こんなの履いてたらコケるに決まってる。流川は忌々しげに身体を起こした。
「あ……流川くん、ごめん」
こっちの妹は何回謝る気だ、もういい。だが、彼女の視線の先に気づいた流川は深く落胆の溜息をついた。

「玲、何かないの、食べるもの」
「ええと……昨日の鶏の煮物なら」
「ちょうどいいじゃない」
「いいじゃないって、誰のせいだと思ってんのよ」
拾い上げたコンビニの袋の中の弁当は、かわいそうなほど潰れていた。
「たいしたものないんだけど、良ければうちで食べていかない?」
気まずそうに玲が申し出た。
「姉が迷惑かけたし」
「一日たって、大根に味しみて美味しいよ」
「酔っぱらいはいいからっ。とにかくどうぞ」

腹は空いているが、決して食べ物に釣られたわけではない。玄関をあがると短い廊下があり、自分のワンルームの部屋と明らかに作りが違うところで、姉妹で住んでいることになるほどと納得した。ほのかにいい匂いがする。甘く淡く、かといって清涼な香り。それは空気に溶け込んで流川の鼻腔をやわらかにくすぐる。
勧められるままにダイニングの椅子に座った。やがて漂ってくるのは、美味しそうな匂い。

「……ウマい」
流川は思わず呟いた。コンビニ弁当なんかよりはるかにいい。しかも添えられた赤い漬物、これだけで白米1杯いけそうだ。

「ぶっ倒れて寝てたよ、まったく。あ、ご飯おかわりどう」
姉の様子を見に行った玲が戻ってきた。待ってましたと言わんばかりに流川は茶碗を差し出す。
「流川くん、コーヒー飲む人?」
頷くと、彼女はキッチンでおそらくコーヒーを淹れ始めた。食べながら、何となくその姿を目で追う。誰かに何かをしてもらうことは久しぶりかもしれない。

「ひとり暮らし、慣れた?」
「ウス」
「でも自炊まで手が回らないよね」
「炊飯器買った」
「買ったはいいけど、使ってる?」
玲は皮肉ともとれる笑みを浮かべた。
「今日は忘れた……」
嘘じゃない。試しに1回しか使ったことはないが。
「フライパンは?」
「……まだ」
堪えられないといった様子で彼女は笑う。
「流川くんっておもしろい」

おもしろい── 言われ慣れない言葉。だが今日2回目だ。ふと以前、おもしれぇと言われた、いや、言った男が思い出された。高校時代、常に自分の前に立ちはだかった男。
一瞬、物思いにふけっていると、どうぞと玲がコーヒーのカップを目の前に置いてくれた。そして流川の向かいに座ると頬杖をついた。いたずらっぽい目つきで言う。

「健司と…藤真と試合とかで会ってない?」
「来週、A学と練習試合する」
「そうなんだ。藤真さ、流川くんと対戦するの超楽しみにしてるよ」
どう返していいのかわからず、流川はカップを口にした。食後のコーヒー、至れり尽くせりだ。
「あの夏の雪辱をなんたらって燃えてた。3年前になる? 意外と根にもつタイプだったなんて笑っちゃう」
「試合、出れるかわからねー」
「そう? 藤真は、オレが監督だったら試しにちょっと出すって言ってたよ」

なんだそれはと思いつつも、説得力がなくもない。しかもそう言われては、A学との試合が俄然待ち遠しくなってきた自分に気づいて苦笑する。
「みんなバスケ好きだよねぇ。ほんと、バスケバカなんだから」
ちらりと視線だけあげた。これは誰に向けての言葉だろうか。
「あれ、自覚ない?」
「………」
くすりと笑って、玲はコーヒーに口をつけた。

何かを求められるでもない、ほどよく気安い会話は流川のリズムとうまく合致していたようで、にわかにくつろいだ心地になってきた。お腹が満たされたから、それもあるかもしれない。
さほどの繋がりがあるとも思えない女の部屋で、なぜかふたり向かい合うこの状況に違和感を覚えながらも、わりと馴染んでいる自分に流川は悪くないと思った。
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