大学編 流川

□conte 06
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無情にも鍵は隙間に落ちていった。それは一瞬の出来事だった。
しかし玲には同居の姉がいるわけで、望みを託してインターフォンを押してみたが、まだ帰っていないようだ。電話をしてみるも、虚しく呼び出し音が響くだけ。
「あー、もう、なんで出ないの!」
携帯に八つ当たりしても仕方がない。落胆を隠しきれないまま、流川のところへ戻った。見て来いよと言ってくれたのは彼だった。

「いなかった……」
「連絡は」
「取れない。けどもう少し掛けてみて、ダメそうだったら友達のとこ行くから大丈夫。ごめんね、気にしないで帰って」

流川はしばらく下目で玲をみたあとで小さく頷き、「……それじゃ」と背を向ける。遠のく足音に続いて、ドアが閉まる音がわずかにした。静まり返ったマンションの廊下で、玲は再び通話ボタンを押すが、一向に出る気配がない。掛ける相手を変えた。

そうこうしていると、ふいに人の気配が── 顔を上げると、再び流川が姿を見せたではないか。これと差し出された紙を見ると、管理会社の名刺だった。

「ありがと……でももうこんな時間だから、ちょっと無理かな」
流川なりに手立てを考えてくれたらしい。
「明日の昼間に連絡してみるね」
「お姉さんは」
「んー、電話出ない」
「友達は?」
「えっと、ちょっと都合が悪くて……」

繋がったのだが、彼氏が来ているそうで言い出せなかった。他の友達は遠いか実家暮らし。藁にも縋る思いで藤真にも掛けたが、こちらも留守電。

「ファミレスかどっか行って時間潰すことにするよ」
脇に置いていたバッグに手を伸ばせば、それより一瞬早く、流川がひょいと手に取った。低い声で何か言われたが、聞こえない。そのまま歩いていってしまう。
「ちょっ、流川くん待って、なに」
「……待てばいい」
「え?」
「オレんちで、お姉さん帰ってくるまで」
「ええっ、いや、それは、あの……」
「ファミレスって隣の駅だろ、めんどくせー」

それはそうだけど、だからと言って流川のワンルームでふたりきりというのもいかがなものか。彼のタイプからして、その懸念は無用だとわかっているが、かといって部屋にお邪魔するほどの関係性を築けているとは思えない。

「平気、大丈夫、何とかなるから」
流川が玄関のドアを開けた。
「こんな時間にお邪魔しちゃ悪いし……」
「オレはあんたのとこで飯まで食った」
「それはそうだけど」
「ここなら時々、様子も見にいけんだろ」

つべこべうるせーなと言わんばかりの流川。玲のバッグを持ったまま、部屋の奥に入っていく。やむなく玲も足を踏み入れた。
短い廊下、その左側に小さなキッチンがあり、反対側はバスルームとトイレらしきドアがある。大きくない室内だが、これといった家具はなく、床にじかに敷かれたマットレスで寝ているようだ。片隅にあるクッションの横に玲のバッグを置いた。この辺りに座れということだろう。

「失礼……します」
閉ざされた空間にふたりだけという状況は、やはりいくらか緊張する。エレベーターとは似ても似つかない。
「なんか、居合わせたばっかりにこんなことになってごめんね」

取り繕うように軽い調子で言ってみるも、流川はチラリと視線を寄越しただけ。備え付けのクロゼットからTシャツを出すと、「何もねえけど、好きにしていいから」と言い残し、バスルームへ行ってしまった。まあ、こちらとしてもいつも通りに行動してもらえた方が気が楽だ。積みあげられたバスケ雑誌の上にリモコンを見つけ、テレビをつけてみた。

10分ほどで流川も出てくると、キッチンで水でも飲んでいるようだ。そのままゴソゴソと何かしているかと思えば、カップを片手にやってきて、折りたたみ式のローテーブルに置いた。
「インスタントだけど」
「あ、ありがとう」

コーヒーの香りが緩やかに部屋に流れる。流川は反対の壁に寄りかかり座った。
そのコーヒーをひと口いただき、即座に反応できるように携帯を目の前に出し、座りやすいようにクッションを移動してみたりしたが、それにしても手持ち無沙汰だ。所在ない。

「テレビ、変えてもいいか?」
流川がぽつりと口にした。
「もちろんだよ、ここ流川くんちなんだし」

慌てて手元のリモコンを差し出せば、変えられた画面を見て「ああ、それか」と思わずにいられない。夜のスポーツニュース。特にその番組は、国内に留まらず、NBA情報を一番長く流してくれるのだった。仙道も毎晩それを習慣にしていた。流川もそうなのだろう。

濡れた髪を拭きながら、長い足を持て余すように座り、見るともなしにテレビを眺めるその姿。どうしようもない懐かしさと切なさに、胸の奥がかすかに泡立つ。進行役のアナウンサーも、タイトルのロゴも変わっていない。蘇ってくるあの頃の感覚に、今になって流川の部屋に来てしまったことを後悔しそうだ。

その時、携帯が震えた。藤真だった。玄関に移動し、声を落として出ると、「なんか用?」と単刀直入なひとこと。用がなきゃ電話しないっつうの、という言葉を飲み込む。

「ねえ、今夜泊めて」
極力ソフトな口調で言った。
「は? おまえに言われても嬉しかねーな」
「そういう冗談じゃなくて、家の鍵落として……お姉ちゃん帰ってないし困ってんの」
まだ飲んでいる最中らしく、背後がガヤガヤと騒がしい。
「今、どこいるわけ」
「どこって、その……し、知り合いのとこ」
「なら、そこ泊めてもらえよ」
「それは無理! ダメだから聞いてるんじゃん」

押し殺した声で訴えるも、素っ気なく却下された。これからカラオケに行くとか何とか。
切れた携帯を手にがっくりと項垂れていると、キッチンに置かれた牛乳パックが目に入った。風呂上りに牛乳、こんなところも仙道と同じだ。出しっぱなしなところも。
「冷蔵庫開けていい? 牛乳しまうから」
返事がない。まったくそんなところまで。

「ねえ、彰──」

その瞬間、玲は自分が信じられなかった。ついうっかりと無意識に漏れ出た言葉に唖然とした。振り返った流川と目が合う。聞こえたのだ。
「あ、あの……これ」と牛乳を示すと、流川はゆっくり立ち上がりやってきて、冷蔵庫に自ら仕舞う。その間、玲は立ち尽くしたまま。呼び間違いに気づかなかったふりをしてしまえばいいのに、それでいてそうは出来ない。明らかに顔に出てしまっているのが自分でもわかる。
「私……家、見てくるね。帰ってないか」
流川は「ああ」とだけ答えた。

逃げるようにして廊下に出たとたん、玲の身体から力が抜けた。もう消化したと思っていた様々な感情にとらわれて、自分でも何がなんだかよくわからない。閉めたドアに寄りかかり、心落ち着かせようとゆっくり大きく呼吸を繰り返した。
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