大学編 流川

□conte 07
1ページ/1ページ


「……どあほう」

玄関の暗闇に向けて流川は呟いた。アキラと呼ばれ、振り向いた時に見た玲の顔。その表情には明らかに狼狽があった。自分の発した言葉に驚き、取り繕うこともできずに立ち尽くす彼女。まだ仙道のことを忘れられないのだ。そのことをまざまざと見せつけられた。

きっとこんなふうにふたりで過ごすことがあったのだろう。だから思わずその名が口を突いて出たに違いない。
しかしよりによって仙道と間違われるとは。ライバルと意識し、超えたいと常に挑んだ相手であり、何とも複雑だ。流川がイラついたのはそのためでもあったが、それとは別に、取り留めのない焦燥がわけもなく胸を騒がせる。もどかしいほどのかすかな痛みを覚えた。

テレビのニュースはすでに別の競技の話題に変わっている。しばらくして玲が戻ってきた。さきほどの動揺はすっかり消えており、ただがっかりした様子で大げさに肩で息をついた。

「やっぱりまだ帰ってなかった……」
確認しにいっただけにしては、やけにゆっくりだったなと思う。

「ごめんね。流川くん、明日も練習だよね。朝早い?」
「そうでもねえ……から別に」
「そっか。でも気にしないで寝てね、って私が言うのも変だけど。出る時は鍵閉めて、玄関ドアのポストに入れておくよ」
「いや、まだ眠くねー」

眠くないのは本当だ。嘘じゃない。確かにいつもならばバスケのコーナーを見終わると同時に寝ているけれど。「そう」と言うと玲は部屋の隅の元いた場所にへたり込むように座った。

「あそこに落ちてるってわかってるのになあ。隙間にさえ落ちなければ……って今さら言ってもしょうがないね」
「……悪かった」
ぽつりとこぼれた独り言のような言葉に玲は首を傾げた。

「え、なにが?」
「鍵。オレがあんた急かせたから」
「そんな、流川くんのせいじゃないよ。ぼーっとしてた私が悪い」
「ぶつかって落とした」
「違うよ、あれは扉押さえてくれようとして。とにかく運が悪かっただけだって」

そう言いながら玲はハッとしたように顔をあげた。

「……もしかして、責任感じて……だからここで待てって言ってくれたの?」
「………」

それがないわけじゃないが、それよりもただ放っておけなかった。何とかしてやりたいと自然と身体が動いたというのが正しいかもしれない。流川は視線を逸らせた。

「流川くんって、もっと淡々とした人かと思ってた」
どういう意味だと思いつつ黙っていると、玲は小さく微笑んだ。
「ありがとう、意外と優しいんだね」
 
意外と── そこにひっかかりはあったけれど、優しいなどと初めて言われた。慣れない言葉にフンと顔をそむけると、流川はバスケ雑誌をめくり始めた。

沈黙がふたりの間に流れる。だがそれは穏やかな静けさで、紛らわす必要はない。そのままテレビを眺めたり、携帯を確認しては溜息をついていた彼女だったが、ふと気配が消えた気がして流川は振り向いた。
視界に入った置時計は、ちょうど12時になろうとするところ。クッションに身を横たえ、玲は眠ってしまっていた。そういえば飲んだ帰りだと聞いた気がする。そりゃ眠気に勝てないだろう。だからといって、気にせず寝てくれと言ったほうが、先に寝てしまうとは。

「どあほう──」

仙道のことを思い出し、やるせない様子だったかと思えば、ケロリとした顔で戻ってきて人の部屋で居眠りである。理解できない。だが流川の口元は心なしか僅かに緩む。

音をたてないようにクロゼットから毛布を出すと、玲に掛けてやった。垣間見えた寝顔は、何の憂いもないような無邪気さで、思わずそっと髪に触れてみた。柔らかい。
心だけでなく、この髪の1本1本まで仙道のものだったのだろうか。半年という月日を経てなお、失った恋を納得させるには不十分なのだろうか。そんな問いに答えが出るはずもなく、ゆっくりと流川は立ち上がった。珍しく感傷的な溜息をつくと、テレビを消し、自分も横になった。



翌朝──
流川は自身の携帯の着信音に起こされた。宮城からのモーニングコールだ。練習がハードだった日の翌日など、遅刻の気配を察して時々よこしてくれる。今日も何かの勘が働いたのだとしたら、その嗅覚には恐れ入る。電話の向こうから宮城が呼びかけてきた。

「起きたかー? 二度寝すんなよ」
念を押され、渋々身体を起こした時に、部屋の隅の畳まれた毛布に流川は気付いた。
どこにも玲の姿がない。

「あれ……消えた」
「なにが」
「帰った……」
「誰かいたのか? 帰ったって、もしや女? 流川、どーいうことだよっ!」
本当に、こういうところはやたら鋭いから困る。
「なんでもねーっす」

なかば無理やり打ち切ると、流川は玄関に向かった。内側の簡易ポストを開けると、鍵が入っていた。部屋に戻れば、毛布の上にメモがある。

──『姉から連絡あったので帰ります。ありがとう。AM2:00 玲』

ホッとしたような、肩の荷が下りたような、それでいてひとり取り残されたような不可解な喪失感。そんな説明のつかない感情がわきあがる。すっきりしない。
こんな時は寝てしまうのが一番なのだが、そうもいかない。とすればバスケだ。バスケをしているときは無心になれる。流川はメモをくしゃりと丸めると、ゴミ箱の中に放り込んだ。
次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ