大学編 流川

□conte 08
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ホームに降り立った人々は、一斉に階段を降りて改札へと向かい列を作る。いつものように人の頭の群れを眺め下ろしていた流川は、前方に自分とほぼ同じ背丈の男をみとめた。そのすっきりとした後ろ姿には見覚えがある。
すぐに追いついた。というのも、彼は玲に合わせて歩いていた。彼女は酔っぱらっているようで、その足元は心なしかおぼつかない。

「ああ、流川か」
近づく大きな影に、顔をあげた神がハッとした。だが、さほど驚いた様子もないのは、きっと藤真から聞いているのだろう。流川は軽く頭を下げた。
「ちょうどいいところに。ちょっと玲ちゃんを見ててくれないか」
返事を待たずに、神は植え込みの淵に玲を座らせた。

「さっきまで全然平気だったんだけど、酔いが回ってきちゃったみたいなんだよ。オレ、そこのコンビニで水買ってくるから」
そう言うと、神は行ってしまった。言われた通りにするしかない。バッグを抱えてうつむく玲を見て、流川は無音の溜息をつく。
アルコールには強い方だと聞いていたが、これはどういうことだ。というよりなぜ神が一緒にいるのか、誰と飲んでいたのか、そんなことを思い巡らしつつ、だが同時にそんなことは自分には関係ないと頭を振って打ち消す。
神が戻ってきて玲にペットボトルの水を渡すと、彼女は勢いよく口にした。

「ありがと……ごめんね」
「大丈夫? 少し座って、様子みようか」
心配そうに屈んでいた神は、身体を起こすと、少し頭を寄せ小声で言った。
「珍しいよな、こんなこと」
「………」
「ま、しょうがないか」
その含みのある物言いに、思わず尋ねてしまう。

「何かあったんすか」
「ん……今日、牧さんの先輩のやってるスポーツバーに藤真さんと玲ちゃんと4人で行ったんだけど、そこで仙道の話が出ちゃったんだよ」
神は苦く小さく笑った。
「その先輩は何も知らないから、止めようがなくてさ。その間、玲ちゃん、飲むしかなかったんだよね」
まるほど、そういうことか。流川はちらりと玲に視線を走らせた。何かを吹っ切るように水を飲んでいる。それは酔いなのか、仙道なのか──

「もう平気だって本人は言うけど、どうなんだろうな。藤真さんも何だかんだ気に掛けてて、いっそ早く新しい男作れって。牧さんやオレを候補にあげ出す始末だよ」
あの海南の『じい』か……と流川は思う。
女から見てどうなのかはさっぱりわからないが、少なくともあの身体は魅力的に違いない。そして、隣の男。その探るような視線に気づいた神が薄笑いを浮かべた。

「はは、だからって下心あって送ってきたわけじゃないよ。オレ、二駅先なんだ」
「そーなんすか」
「一番近いからね」
納得し頷いた。ということは──
「じゃ、オレが」
「ん?」
「ここからはオレが連れてく」
ふと口をついて出た。出てしまったとしか言いようがない。

「流川が?」
「一番近いから……っす」
「まあ、そうだけど」
「それに終電」
「まだそんな時間じゃないけどさ」
そこで、不意に玲が顔をあげた。
「神くん……大丈夫だから」
状況がわかっているのかどうか怪しいが、本人がそう言った。
「そう? んー、流川か、流川なら任せられるかな。じゃあ、玲ちゃん、オレは帰るね」

神とは国体で一緒のチームだったが、ほとんど会話をした覚えはない。だが、謎の信頼が自分にはあるらしい。彼は「藤真さんの従姉妹ってこと、忘れないように」と小声で言い残すと、手を振って駅に戻って行った。

別に誰の従姉妹だろうと、たとえ妹だろうと、何も変わらない。このあとは家に帰るだけ。ただ、その道のりの95%が同じなだけだ。流川は深呼吸すると、玲に声を掛けた。
「立てるか?」
うん、と立ち上がり、歩き始めるが危なっかしい。腕を取り、支えてやった。それにしても、まっすぐ歩けないものかと足元に目を落として、流川は呆れた。
なんで女は揃いも揃ってこんな靴を履くのだろう。酔っている酔っていない関係なしに、このヒールで体重を支えようなんて理解できない。目の前でコケた彼女の姉のことを思い出した。駅前通りを抜け、街灯がまばらになったところで、流川は思い切った。

「背中、乗れ」
「へ?」
「危ねーから」
そう言うと、流川は玲の前にしゃがんだ。
「そんな……そこまで」
「いいから」
「でも」
「早くしろ」

それ以上抵抗する元気もないのか、玲は流川の肩に手を掛けた。ゆっくり立ち上がれば、背中と腕に柔らかな重みを感じる。ほんのりと温かい。
「ごめんね……」
「別に。あんたコケたら、神…いや、藤真サンに……」
「健司? 健司がなに?」
答えずにいると、「健司はさー、まったく健司なんだよねー」と酔っ払いの戯言が後ろから聞こえてくる。健司、健司とうるさい。そして唐突に玲が流川に尋ねた。

「ねえ、流川くんの名前、なんて言うの」
「は?」
「下の名前」
「楓」
「へえ、楓って言うんだ」
健司の連呼から、一転して楓に代わる。
「流川楓、楓ね。カ・エ・デ」

耳元で囁くように自分の名を繰り返され、それはくすぐったくも心地よい。だが、同時にじわじわと絞り上げられるような息苦しさを覚えた。胸の奥に、今まで感じたことのない不可思議な感情が積み重ねられていく。
やがてその声は途切れ、代わりに玲の身体がぴたりと自分の背に密着した。寝てしまったに違いない。心の中でどあほうと呟いた。


今夜は姉が家にいた。そしてもうひとり。男がいた。姉の彼氏だそうだ。以前、廊下で見かけたことがある。あれはフライパンを返そうと思った時だったか。
玄関でその彼が玲を引き受けてくれようとしたが、流川は断った。

「……この勢いで運びます。寝てるし」
「そうだな、悪いね」
すっかり眠りこけている彼女をベッドに寝かせれば、「姉妹揃ってごめんね」と姉が申し訳なさそうに言った。
「どうしたんだろ、玲がこんなに酔うなんて」
まさか仙道のせいだなんて言えるわけがない。聞こえないふりをした。

帰ろうとすると、姉の彼からも礼を言われた。
「キミも……大きいんだね。やっぱりバスケを?」
コクリと頷き答えると、流川は再度頭を下げ、玄関をでた。生温かい空気が濃く満ちて、風のない静かな夜だった。
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