大学編 流川

□conte 09
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昨夜の醜態を姉から聞かされ、玲は慌てて神に電話をした。
「重かったでしょ、ごめんね」
「重い……?」
迷惑をかけたことを詫び、送ってくれたことに礼を言うが、微妙に話が噛み合わない。

「おんぶして部屋まで運んでくれたって聞いたけど……」
「それオレじゃなくて、たぶん流川だよ。覚えてない? 駅でちょうど会ってさ、流川が連れて帰るって言うから代わったんだ」

知らなかった、というより電車を降りた辺りからの記憶がない。てっきり神だと思い込んでいたが、それが流川だったなんて。
流川に電話をしようとして、番号を知らないことに気づく。直接謝りに行こうにも、まだ帰っていないだろう。

その夜、多めにおかずを作り、捨てられる容器に入れ、時間を見計らって訪ねた。外は雨が降っており、空気は重く湿っぽい。3度ほどインターフォンを押したときに、流川の声がした。

「玲です」と名乗ると、少し間をおいてからドアが開いて、グレーのスウェットの上下の流川が顔を出した。何の用だと言わんばかりの顔。

「あの……昨日はすみませんでした。連れ帰ってくれたんだってね、ありがとう」
そう言って、気持ちばかりですがと差し出せば、彼は素直に受け取った。食べ物だと察したようだ。

「この間は鍵落として迷惑かけたし、昨日は酔っ払いであれだし、ほんとごめん。……あ、いちおう言っておくと、いつもはあんなに酷くないからね」
流川はそのまっすぐに伸びた眉を、呆れたように動かしてみせた。

「あ、そうだ、今更だけど連絡先教えてよ」
玲は自分の携帯を取り出した。
「憶えてねー」
「じゃ、携帯持ってきて」

流川らしいといえば、流川らしい。そんな彼にも少し慣れてきた気がする。携帯を手に流川が廊下に出てくると、何も言わずに差し出された。
相変わらず不愛想でよそよそしかったが、その冷やかなほどの素気なさが彼だ。番号を登録しながら、玲は何気なく言った。

「流川……えっと、下の名前なに?」
「は?」
「名前、流川くんの」
流川の顔にさっと影がさした。
「昨日言った」
「ほんと? ごめん、実は昨日の記憶があまりなくて……」

彼の鋭利な目がいっそう鋭さを増し、咎めるような気配が広がる。玲は言葉に窮し「なんであんなに酔っぱらっちゃったんだろ」と曖昧にごまかそうとしたが、やがて皮肉ともとれる笑みを流川は浮かべた。

「なんで酔ったか? 自分が一番よくわかってんだろ」
「……どういう意味」
「平気なふりして、アンタは仙道のことを全然忘れてねー」
「どうして流川くんがそんなこと」
驚いて流川を見上げた。
「聞いた。昨日、ヤツの話が出たって」
流川が見返してくる。その強い視線に押されて、玲は一瞬たじろいだ。

「だ……だからって、流川くんには関係ないでしょ」
「オレのこと、彰って呼んだ」
「あれは……だとしても何の関係が!」
玲はかろうじて言った。意味がわからない。
「オレの名前憶えてねーのがムカつく」

苛立った声でそう言うと、流川は玲の腕を掴んだ。大きな手だった。熱を持ったように熱い。

「離して」
振り切り、後ずされば、ドアに背がついた。流川がゆっくり近づいてくる。両手で胸を押し返すが、ビクともしない。精一杯の力を込めても止められない。逃げられない。
ムカつくなんて言われて追い詰められたら、思わず目を閉じ身構えてしまう。雨濡れた道路を走り抜ける車の音がやけに耳についた。

「こっち見ろ」
切羽詰まるように言い放たれた語気のせつなさに、玲は薄目を開けた。
体温が感じられるほどの距離で流川は見下ろしてくる。彼からは自分に触れていないにもかかわらず、隙間なく覆われるような奇妙な量感に動けない。やたら長い溜息を吐いたあと、流川は静かに言う。

「顔あげろよ」
懇願を秘めた流川らしからぬ声音。
ただ瞬きを繰り返すばかりだったが、従わないことにはこの場から抜け出せそうもない。
おそるおそる見上げると、鋭い中にも温かみのある視線とぶつかった。つかのま、彼の顔が近づいてくるのが感じられた。
このままでは──

「待って」
慌てて玲は顔を逸らし、流川を突き放した。
「ごめん、流川くん」
それしか言えなかった。そのまま彼の脇をすり抜けた。走れば数秒の距離。鍵だって閉めていない。逃げるように家の中に滑り込んだ。



あんなことがあってからは気まず過ぎて、偶然かち合わないよう気を付けるどころか、むしろ警戒した。廊下は誰もいないか確認してから、駅までの道中、コンビニから大柄な男が出てこようものなら、隠れる場所を探すありさま。
その甲斐あってか、ニアミスすることもなく一週間が過ぎた頃、近くまで来たからと藤真が訪ねてきた。

「この間はへーきだったか?」
スポーツバーで飲み過ぎた日のことだ。心配してくれたことはありがたいが、しっかりビールを買い込んで飲む気満々らしい。

「神から聞いたぜ、流川におんぶされてご帰宅だそうで」
藤真・神のホットライン。バスケにおいてのみ発揮してほしいところ。

「その辺り、実は記憶ないんだよね」
おかげで無事帰宅できたわけだが、その後のあれは何だったんだろう。だんだん自分の勘違いで、独り相撲のような気がしてきた。

「あ、ねえ、流川くんの下の名前って何?」
「流川の? 何だっけな、流川としか呼んでねえから。でもカエデ……だったと思う。なんで?」
「別に。そういえば知らないなと思って」

カエデ、そうだったような気がしてくる。だが、もし間違ってたらと思うと、不用意に鵜呑みにできない。

「なあ、流川って何号室?」
「501、廊下の突き当り」
「おもしれ、オレちょっと行ってくる」

マジかと思えど、お好きにどうぞ。藤真の突撃、確かにちょっとおもしろいかもしれない。呆れたように、だがニヤリと笑って、出ていく藤真の後ろ姿を見送った。
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