大学編 流川

□conte 11
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バイト帰りに駅から家路に向かい始めたところで、ふいに流川が現れた。同じ電車に乗っていたのかと思ったが、彼は手ぶらだ。

「お疲れ、どうしたの」
「……ランニング」
「そうなんだ、いつも夜走ってるの?」
「たまに」

先日の告白以来、初めて顔を合わせたわけだが、何事もなかったフリをするしかない。流川も何も言わない。
バイトのこと、バスケのことなど、当たり障りのない会話をぽつりぽつりとしながらマンションに向かう。ところどころにはさまれる沈黙に、これまでにない落ち着かないものを感じたけれど、それは元々口数の少ない流川だからなのか、自分が変に意識してしまっているのか、よくわからなかった。
わからないまま、そのことを深く考えようとしなかったが、次のバイトの日の帰りにも駅のロータリーを抜けたところで流川と一緒になった。

「ランニング中でしょ、気にしないで走って帰って」
「いや、いい」

22時を過ぎ、家路を急ぐ人通りはまばらだ。並んで信号が変わるのを待ち、通りを渡れば共に歩く。同じマンションに入り、同じエレベーターに乗り込み、同じ階で降りた。
「じゃあ」
素気なく流川は言った。
「うん、おやすみ」
背を向けるとそれぞれの部屋に向かう。ほぼ同時にドアを開け、閉まる気配がした。


その週の日曜、ちょうど正午になろうという時刻。何の前触れもなく玄関のインターフォンが鳴ったかと思えば、それは予想通り流川だった。反射的に流川だと思った。ここのところの遭遇のせいだろう。これ、と彼は手のひらに乗る黒い物体を見せた。

「なあにそれ」
「空気入れ」
「え、そうなの? でも何で?」
「この間、アンタのお姉さんに頼まれた」

確かに共用で乗っている自転車のタイヤの空気が抜けている。一緒に駐輪スペースに向かった。

「今の空気入れってこんなに小さいんだね」
流川は後輪に手際よくセットすると、スタンド部を片足で押さえ、反対の足でポンプを踏む。足踏み式で、空気圧メーターもついている。

「へえ、小さくても優秀」
「ボールにも使える」
「そっか、なるほどね。フライパンはなくとも、空気入れは持ってるわけだ」との皮肉めいた呟きにギロリと睨んできたが、そのまま前輪にも入れてくれた。

「助かったよ、ありがとう。あとでこれ乗って買い物行こっと」
「今」
「ん?」
「今から行く。昼メシまだだろ」
「うん、そうだけど」
呆気にとられて、玲は流川を見た。
「今から……って練習は?」
「午前だけで早く終わった」

どうやらこのまま出掛けようということらしい。流川がポケットを探って出したのは、彼の自転車の鍵だと思われる。

「ちょっと待って。何も持ってないし……」
「いらねー」
「いるってば……それに日焼け止めもしなくちゃだし」

めんどくせえなと言わんばかりの流川。
「オレのにも空気入れてるから」と言い残して、奥に行ってしまう。その間に取ってこいということだろうか。

有無を言わさぬ雰囲気に押し切られ、急いで部屋に戻ると財布と携帯などをバッグに放り込み、顔に日焼け止めを塗るとUVカットパーカーを羽織る。さらにちょうど玄関に置いてあったキャップを被った。藤真の忘れ物だが、ためらっている暇はない。大きすぎず、意外としっくりくることが少し腹立たしかった。  
再び下に降りていくと、流川の傍らにはドロップハンドルのスタイリッシュなロードバイクが。

「高そう……っていうより速そう。ついていけるかな」
「んな遠くいかねえ」

東の方向に向かって住宅街を進む。途中、一軒のベーカリーに立ち寄り、さらに走り抜けていく頃には、流川が海沿いを目指していることがわかった。
国道に入ると、大型の輸送トラックが多くなり、倉庫群を過ぎるとその先に緑が見えてきた。30分ほどだったと思う、こんな海浜公園があったとは。

「うわあ、海、久しぶり」
園内も自転車は走行可能らしい。そのままキャンプ場を横目に木立を抜けると、水平線とともに浜辺が見えてきた。人口の砂浜のようだ。湘南の海と違うのは、視界に東京港や貨物船が映ること。そして一番の違いは、羽田空港を離着陸する飛行機が目の前を飛行していくことだった。

「すごい、飛んでる飛行機こんな間近で初めて見た」
ボードウォークに沿ってゆっくり走らせてから、ベンチの近くに自転車を停めた。ここで食べようということだろう。流川の隣に玲も座った。

具沢山のサンドウィッチ。流川はローストビーフで、玲はスモークサーモンを選んでいた。ボリューミーだが、ソースはあっさりしており絶品だ。

「外で食べてるせいもあるのかな、めちゃくちゃ美味しい。あのお店、知ってたの?」
「前に通りがかった。食うのは初めて」
「自転車、けっこう乗るんだね」
「このあいだ、三井サンちまで行ってみた。案外近い」
「確かに。電車乗り換えるよりよっぽど早いかも」

のんびりした空気が漂うが、時に真上をジャンボ機が通過していく。かなりの音が響き、静けさを求める人にはうるさいと感じるかもしれない。しかし、その合間の静寂を待って会話するくらいが、流川とはちょうど良かった。
不愛想なのは相変わらずだが、何か聞けばきちんと答えは返ってくるし、居心地は悪くない。なので、リラックスし過ぎていたのだろう、流川がうつらうつらしていることに全然気が付かなかった。

突然、彼の頭がガクリと落ちる。
「ねみぃ……」
そのままズルズルと倒れてくると、ちゃっかり玲の膝を枕にするではないか。
「ちょ、ちょっと、流川くんっ」
慌てたところで、もう遅い。肩を軽く揺すっても反応はない。堅くなされた腕組みが、テコでも動かぬとの意思表示のようだ。

膝枕をするような間柄ではないけれど、さすがに振り払うことは出来ない。迷った末に自分のキャンパス地のトートバッグを流川の頭の下にそっと差し入れた。これなら密着感も少しは薄れる。とはいえ、どうしたって流川の重みは伝わってくる。意識せずにいられぬ存在感。

本格的な夏を前に、辺りには青々とした日差しが降り注ぐ。玲はキャップを深く被り直した。
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