大学編 流川

□conte 14
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翌朝、雨はすっかりあがっており、雲の間からは柔らかな日差しが降り注いでいた。
今日が休みの日で良かった。きっと目は腫れあがり、顔もむくんでいるに違いない。久しぶりに泣いたせいか、頭も痛い。よろよろと立ち上がり部屋のドアを開けると、コーヒーの良い香りがした。

「おはよ。あらぁ、ひどい顔」
キッチンに立つ姉がちらりとこちらを見て、憐れむように笑った。今さら隠す気もない。
「座りなさいよ、あなたも飲む?」
「うん……ありがと」

玲は言われるまま、ダイニングの椅子に腰を下ろした。

「でも、顔のわりには、意外とすっきりした感じじゃない」
「泣いたらいろいろ吹っ切れた気がする」
「まあね、それをぶつけられた方はたまったもんじゃないけどね」

その通りすぎてぐうの音もでない。あれは完全に八つ当たりだった。あげく土砂降りの雨にさらしてしまい、申し訳ないことをした。

「今度会ったら謝っておく」
「彼にしたら謝られたくないと思うけど? それにあのくらいのことじゃ、動じないってよ」

そう言いながら、姉は白い紙袋をテーブルに置いた。見たことのあるパッケージ。流川と自転車で海浜公園に向かう途中にあったベーカリーのものだ。どうして、これが……。

「朝、玄関前に置いてあったんだけど、流川くんよね」
「うん、間違いない」

あの時のサンドイッチの他に、デニッシュやチョコレートが練り込まれたパンなど女性好きしそうな甘いパンも入っていた。自転車を走らせて買いにいってくれたらしい。

「これ私の分まであるわよね、律儀だなあ。それに健気じゃない。そんなタイプに見えないからびっくりよ。だから玲も彼を避けるようなことしないでさ」
「避けてなんて……」
図星ゆえに反論できない。
「ちゃんと向き合うべきなんじゃないかな」 

玲は黙っていた。向き合ったところで、たとえ流川の言葉を素直に受け取ったとしても、自分はどうだろう。昨夜のような些細なことで気持ちが引き戻されてしまうのだから、まだだめだ。けれど、思いもよらない流川の一面に掻き乱され、流される自分もいる。考えたところで、堂々巡りで結論はでない。目の前で姉は遠慮なくサンドイッチにかぶりついた。

「あ、美味しい。このお店、近所じゃないわよね、なんで玲も知ってるわけ?」



パンのお礼のメールはその日のうちにしておいた。迷った末に『取り乱してごめん』とだけ添えた。予想通りといえばそうだが、返信はない。
それから数日後、夜のうちにゴミを出しておこうとエレベーターを待っていると、ちょうど流川が昇ってくるではないか。扉が開き、鉢合わせる。

「お……お疲れ。今、帰り?」
ウスとだけ答え、行き過ぎようとする流川を、玲は思わず呼び止めた。
「ちょっと待って、えっと、その、散歩行かない?」

唐突だったと思う。だが、驚いた風もなく「5分後に降りる」と流川は答えた。

エントランスで合流し、駅とは反対方向に向かって歩き出した。生温かい夜風が、中途半端な距離をとるふたりの間を素通りしていく。月明かりと疎らな街灯の下、少し行くと緑道に出た。元は小さな川が流れていたらしい。

「こっち側って全然こないから、知らなかった」
「チャリでなら通ったことある」

しばらく道沿いを行くと、大きな桜の木の元にひっそりとベンチがあった。そこに流川は座った。そしてこちらを見上げると、「言いてえことがあんだろ」と意外にも彼から促してきた。

とはいえ、いざとなると何と切り出せばいいものか。玲も座ると、大きく深呼吸した。

「ごめんなさい」
「………」
「雨の日のことじゃなくて……その、前に流川くんが言ってくれたことのほう」
「………」

無言の圧は辺りの暗さに溶け込み、重々しく圧し掛かってくるようだ。
「あの、意味わかる?」
流川は呆れたような顔で玲を見下ろした。

「それがアンタの返事ってヤツか」
「……」
「まだ仙道を忘れられねーからか?」
「それは……」
「フン、どあほうが」
「ど、どあほう……!?」

予想外の言葉にきょとんとしてしまった。

「そんなことぐらい最初からわかってた。別に関係ねえ」
「流川くんには関係なくても、私には関係ある。私がだめなの」
「じゃ、いつまでそのまんまのつもりだ。ずっとか?」
答えられず、唇をぎゅっと噛みしめる。
「アンタはそれでいいのか?」
責められている気分になる。

「だからどあほうってんだ」
「ど……どうせ、どあほうですよ。自分でもそう思うからほっといて」

諦めたような投げやりな声で言えば、今まで以上に流川はやれやれといった様子で、長々と息を吐きだした。

「ほっとけねー。それに言ったよな、オレのせーで思い出したって」
ひと呼吸おくと、彼は静かに言い放った。
「なら、オレの責任だ。オレが忘れさせてやる──」

その言葉はやけに真に迫っており、玲は茫然と流川を見つめる。混乱のあまり、何をどう言えばいいのか見当もつかない。もがけばもがくほど、ハマりこんでいくようだ。
流川がゆらりと立ち上がった。手首を掴まれ、玲も立ち上がらされたかと思えば、そのまま彼は歩きだす。引っ張られるような形だったが、ふと流川が掴んでいた手を緩め、繋ぎ直した。手のひらと手のひらが合わさる。大きな手だ。

「もう遠慮しねーから」
ポツリと流川が呟いた。
「え、今までしてたの?」

どこが?という響きに、睨まれたが、その目に鋭さはなくむしろ柔らかい。だが、遠慮しないとはどういうことだろう。このまま流川の部屋に連れて帰られたらどうしよう、などという考えが一瞬よぎらなくもなかったが、そんな必要なかった。エレベーターを上がったところで、握っていた手を離された。

「じゃあ……おやすみ」
そう言って、玲が数歩歩きだしたところで、肘を掴まれて引き戻された。あっという間に後ろから流川の胸に覆われ、抱きすくめられていた。

「玲……」

耳に熱い吐息がかかる。鼓動が早い。膝から崩れそうになり、立っているので精一杯だ。そのくせ、がっしりと包み込まれるような温かさに、たまらなく安心感を覚える自分がいる。髪にキスを落とされた気がする。そして何も言わずゆっくりと身体が離れていく。
ハッと我に返り、振り向けば、立ち去る流川の背中が見えた。
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