大学編 流川

□conte 16
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そろそろ帰ろうかなと腰をあげれば、当然のように流川も立ち上がった。
鍵を閉めにきた藤真だけでなく、三井も玄関までやってきて、流川に何か耳打ちしたかと思えば、その背中を叩きながら愉快そうに笑う。

「気をつけて帰れよ。流川、玲のことよろしく」
「そんな酔ってないってば」
いつもは「じゃあな」だけなのに妙に手厚い。ドアが閉まると同時に流川もやれやれと呆れたように息をついた。
「やけに親切で気味悪い。あのふたりの弱みでも握ってるの?」
「その逆」
「え?」
「なんでもねー」

湿りけを帯びた夜気が、お酒でほてった頬をなでていく。まだかろうじて電車もある時間だが、ポツポツと降り出した雨に、ちょうど客を下ろしたタクシーをつかまえ乗り込んだ。


「寝たら起こしてやる」
発車したばかりの車の中でそう言ってきた流川だが、彼のほうがよっぽど眠そうだ。
次第に強まってくる雨。窓を流れるしずくに街灯が反射して、車内に奇妙な模様を作り出していた。それは腕組みをして外を眺める流川の横顔にも写っては消えてゆく。

「なに」
思わず見つめてしまっていたようで、その声で我に返った。
「な、なんでもない。雨……やみそうもないね」
「ああ」
それだけ言うと、流川は黙ってしまった。

藤真の部屋からマンションまではさほどの距離はない。深夜の道路は空いていて、信号にひっかかることも少なく、タクシーはスムーズに目的地に着いたのはいいが、相変わらず外は本降りの雨だった。
運転手からお釣りを受け取り、後部ドアが開いた直後、流川に手を取られた。そのまま連れ出され、エントランスまで走らされる。ほんの数メートルだが、髪や肩はしっとりとわずかに雨しずくに湿る。掴まれていた手が静かに離された。
束の間、流川は玲をじっと見下ろすと「平気か?」とぽつりと口にした。

「このくらい何ともな……」
「違え」
「あ、お酒?」
「そうじゃねー」
少し俯くと、流川は言った。
「またヤツのこと思い出してんじゃねーかって、それでアンタが泣くのは嫌だ。オレは──」
そして珍しく言葉を続けようとするから、今度は玲が遮った。
「平気だよ」
「………」
「この間ので吹っ切れたみたい。ある意味、流川くんのおかげかな。もう大丈夫」

忘れさせると言ってくれた相手に、もう忘れたと口にする。これはやんわりとした拒絶だ。流川は黙って見下ろしてくる。視線が痛い。
「ポスト寄っていくから、ここで。今日はありがとう」
何か言おうとする流川に気付かぬふりをして、奥に向かって歩きだした。

郵便ボックスのダイヤルを回していると、エレベーターの開く音がし、やがて上昇していくのがわかった。玲は細く短い吐息をついた。
これ以上近づいてはいけない。
不愛想で素っ気ないと言われる彼だが、下手な優しさがない分、不思議なぬくもりがある。それに気付いてしまった今、そこに甘えてしまいそうな自分が怖い。

だから頑なに距離をとった。遠ざけたつもりだった。しかし結局は無駄な足掻きだったのかもしれない──



時間も時間なので、湯舟には浸からずシャワーだけで済ませた。
どうやら雨は小降りになったらしい。かすかな雨音のみで、室内は静まり返っていた。だが、濡れた髪もそのままに薄暗がりの中で水を飲んでいると、どこからかカサカサと音がするではないか。
玲はピタリと動きを止めた。姉は恋人のところへ行っているはずだ。嫌な予感がする。すると今度は羽音とともに、何かが横切る気配が。
小さな悲鳴とともに、手から滑り落ちたコップが足元で割れた。絶対にアレだと思った。
用心しながら後ずさると、テーブルの携帯を手に取った。迷いはない。助けを求める相手は彼しか思い浮かばなかった。

「る、流川くん……ごめん、アレが、その、ちょっとお願いが……」
まだ寝ていないことを祈りながら掛ければ、意外と早く出た。意味不明な電話だっただろうに、すぐに来てくれたから有難い。玄関先で事情を把握すると、彼は電気をつけようとした玲を止めた。

「つけるな、逃げられる」
駆除しなければ生きた心地がしない。中に入っていった流川に窓のほうを指させば、カーテンに黒い小さな塊のようなものが見える。スプレー式の殺虫剤を差し出そうとしたところ、「アレじゃねー」と流川が言った。

「え?」
「よく見ろ」
「見たくない」
「カブトムシだ」

虫には変わりないが、害虫と言われるアレではなかった。想定外の訪問者。きっと他の階の小学生がいるお宅からでも逃げ出したのだろう。
だが、いくぶんマシとはいえ触れない。その点で流川は男子だった。静かに近づき、素手で捕ると、玄関から外に出た。また入ってくることのないよう、廊下の端の外壁に張り付けるように置いてきてくれたらしい。

「格闘でもしたのか」
明かりをつけた部屋の惨状をみて、流川は皮肉げに薄く笑った。割れたガラスに、バスタオルは投げ出され、殺虫剤を探して扉は開きっぱなし。
だが、玲がガラスを拾おうとすると、黙って手伝ってくれた。

「ごめん、ありがとう」
欠片を水拭きしながら玲は頭をさげた。
「まさかカブトムシだったとは」
「ったく、どあほう」
「またどあほうって……。でもどっちにしても無理。虫嫌いだから、私ひとりじゃどうにもならなかった。ありがと」
「まだいるかもしれねーぜ?」

流川は立ち上がりながら、アンタの部屋とか、と顎をしゃくった。玲の眉根がひくひくするのを、おもしろそうに見下ろす。

「ヤなこと言わないで」
「夜行性だから、昼間は隠れて、夜になると動き出す」
「やめて! 気になって眠れなくなる……!」
さきほどのカサカサ音が耳から離れない。暗闇の中、空耳だとしても聞こえてしまいそう。一瞬たじろいで、反論しかけた時だ。

「オレがいてやる」
これまでとはどこか違う声で流川が言った。
「アンタが眠れるよう、オレがそばにいる──」
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