大学編 流川

□conte 17
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オレがそばにいる──
その言葉の意味を図りかねて、俯いたまま黙っていると、流川はすり抜けるように横を通り、玲の部屋に入っていく。
「ちょっと待って」
我に返って慌てて追いかければ、リビングからのほの暗い明かりの中、ベッドを背にして流川が座るところだった。

「あの、もう、たぶん大丈夫だから……」
そんな弱気な言葉は、耳に届いても聞き入れてもらえないらしい。こちらを見上げると、早く寝ろと言わんばかりに前髪の隙間から鋭い視線を寄こした。
「明日も練習あるでしょ。流川くんもちゃんと睡眠とらないと」
「アンタが眠ったら帰る」
「でも」
「あん?」
まだ何かあるのかと流川は片眉をあげる。

「その……人がいると気になって眠れないかも」
「よく言うぜ。オレの部屋で平気で先に寝たこと、もう忘れたのか」

やれやれと呆れたようなジェスチャーとともに、ため息をつかれた。そうだった、以前、鍵を失くした時のことだ。返す言葉もない。
「鍵はあの時みてーにポストに入れとく。だから早く寝ろ」

優しさや気遣いというのもやや違う、だが、そこには確かに温かい響きがあった。それに決めたことを簡単に覆すような彼ではない。
あれこれ余計な思考を吐き出すように小さく息をつくと、玲はリビングの照明を少し落とした。ドアを薄く開けておけば、流川が帰るときに困らないだろう。ベッドに横になると、がっしりと厚みのある肩と広い背中がすぐ近くにあった。

「雨やんだみたいね」
その整然と乱れのない後ろ姿に向かって言った。
「ああ」
「明日は何時から?」
「昼から」
所在なさげに前髪をいじりながら、流川は答える。
「ごめんね、寝ようとしたとこだったよね。でも助かった。あの、今も──」
「ん」
「またお礼させて。何がいい? やっぱり食べ物かな」
ほんの少し間があく。そして流川は呟くように言った。
「……と、アンタが淹れたコーヒー」
玲は目を閉じたまま頷いた。
「うん、わかった」



ぽつりぽつりと話していたが、いつの間にか記憶が途絶えた。すとんと落ちるように寝入ってしまい、数時間後に目覚めた時には、目の前にあった背中は忽然と消えていた。
どこか遠くで夜が明け始める気配がする。以前にもこんな朝を迎えたことがあった。眠るときには優しく寄り添っていてくれた人が、翌朝には姿を消し、自分だけが残されていたあの日。そうしてくれと言ったのは自分だし、今でもそれで良かったと思っているが、その記憶はあまりに鮮明で、脳裏に刻み込まれていたらしい。つい思い出してしまった。

息苦しさを感じ、たまらず寝返りを打ったその時、床に転がる大きな塊が視界の端に入った。わずかに身を起こせば、そこには流川が自身の腕を枕に、無造作に横たわっているではないか。わずかに聞こえる寝息は規則正しい。
信じられない思いで、玲は彼を見つめた。寝顔はあどけなさを残しつつも澄み切っており、その穏やかさに塞いだ心が解きほぐされていく気がした。そのまましばらく眺めていたが、手を伸ばせば届きそうな距離の誘惑に、身を乗り出したはずみで目覚ましを落とし、それは見事に流川にヒットしてしまう。

「ごめんっ」
彼は一瞬顔をしかめると、頭を起こして瞬きを繰り返した。ここがどこだかわかっているだろうか。
「こんなところで寝たら、身体痛くなっちゃうよ」
「……屋上よりマシ」

どこの屋上のことだか知らないが、寝ぼけているのかもしれない。だがほどなくして、昨夜のことを思い出したようだ。伸びをして首をほぐすように回すと、口を開いたのは彼のほうからだった。

「眠れたか?」
「うん、流川くんこそ。帰ったのかと思ったのに」
「いるっつった」
「え?」
「アンタのそばにいるって言った──」

彼のことだから眠気に勝てなかっただけかもしれない。が、それでもいい。うっかり寝てしまった照れ隠しや言い訳だったとしても、それでもいい。そばにいると言ってくれた人が、目覚めてもそこにいる。その事実と流川の率直な言葉が玲を揺り動かす。

「だからって……いてくれるなんて……思わなかっ」

声が掠れ、涙がこみあげる。それはまたたく間に膨れ上がり、ついにそれ自身の重みに耐えかねてこぼれ落ちた。信じられないほど後から後から溢れてくる。眠そうだった流川の目が大きく見開かれた。
気付いた時には、起き上がろうとした彼の首を、玲は抱きつくように引き寄せていた。

ただしゃくりあげることしかできない。やがて流川の腕がそっと背中を包み込んだ。体温を感じるその広い胸は、思いのほか情に満ちており、全身から力が抜けるほどの安堵感をもたらす。流川の存在をはっきりと感じた。自覚した。

「る、かわく……ん、ありがと」
やっとのことで声を出せば、コクリと確かな頷きとともにさらに腕に力が込められる。

「いるから、安心しろ」
「ずっと? ずっといてくれる?」
「ああ。だから泣くな、どあほう」
「どあほうは流川くんだよ……もしかしたら、また、名前……呼び間違えることあるかもしれないよ。それでもいいの?」
「関係ねーっつっただろ」
「そうだったね」

少ないながらも、いや、むしろ少ないからこそ、流川の言葉は信じられる。彼は出来ないことは口にしない。少し身体を離すと、涙で頬に張り付いた髪を、流川がそっと耳にかけてくれた。そして膝立ちから立ち上がると、押し倒すように覆いかぶさってきた。

「もう少し寝る」
ベッドに潜り込んできたかと思ったら、そのまま目を閉じてしまった。こんなに近くで流川の顔を見たのは初めてだ。さきほどはその寝顔に癒されたというのに、今はドキドキと胸の高鳴りがうるさい。

「狭くない?」
「ヘーキ」
そうぽつりと答えてから、ふいに流川が鼻を寄せるように深呼吸した。
「アンタいい匂いする」

耳元で囁かれた声は低く艶やかで、脳にダイレクトに響くようだ。こんなことでは今度こそ眠れないかもしれない。それでもいいかと思い直し、目の前のうなじからピンと跳ねている長めの襟足を、玲は静かに撫で続けた。
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