牧 中編

□シネマティック Rival 01
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入浴剤の良い香りに包まれながら、牧は浴槽に身体を沈めた。柔らかな湯がじわじわと肌に浸みるようで心地良い。目を閉じれば、まだ少し残った酔いがゆっくりと分解されていくような気がした。

夕方からちょっとした会合があった。
その後は金曜ゆえに連れ回されるのを覚悟していたのだが、思いのほか早く解放されたので、そのまま麻矢の部屋を訪れた。無性に会いたくなったのだから仕方がない。
そう思いたったときに、理由や口実がなくとも、ためらいなく会いにいけることに喜びを感じる。仕事上の些細な憂いや疲れも吹き飛ぶというもの。
だからといって、彼女の日常に断りなく踏み込むようなマネはしたくない。
「まだ赤坂なんだが、今から行っていいか?」
必ず連絡を入れた。



部屋のテレビはスポーツニュースを映し出していた。それを横目に牧はベッドに腰かけ、ふうと大きく息をついた。片付けの手を止めて、麻矢が言う。

「どうだった? あのバスソルト。商品開発部の子からもらったの」
牧は口元に苦々しい笑みを浮かべた。
「香りはいいが、どうにもあの色が……な」

何とかローズという名の入浴剤を入れた湯は、これでもかとピンク色をしていた。それはたちこめる湯気と相まって、浴室全体に広がる。おかげで妙にムーディーで、鏡にうつった自分の怪しげなことといったら見られたものじゃない。

「覗きにいけば良かったー」
「勘弁してくれ」
「ふふ、エッチな気分になっちゃった?」

牧は頭を拭く手を止めた。
「……そうだな」とわざと上目遣いにねっとりと麻矢を見上げる。
「準備万端とでもいうか」
「えっ、嘘でしょ。ちょっと待って……」
「はは、嘘だ」

「もう!」と言いながら、彼女は自分のバッグの中身を出すと、怒ったような素振りで空になったそれをクロゼットに仕舞いに行ってしまう。そっちが言い出したんじゃないかと思えど、そんな麻矢がかわいい。牧は唇をほころばせた。


その時、足元に落ちている紙に気付いた。拾い上げると、それは名刺だった。麻矢が落としたのだろう。アートデザイナーの肩書に続く男の名前。ちらりと視線を走らせると、牧はそれを麻矢に差し出した。

「落としたぞ」
「ありがと」と受け取った麻矢は、思い出したようにパッと表情を変えた。

「今日ね、新しいラインナップの件で代理店のクリエイティブ部門の人と打ち合わせしたんだけど、その中に小学校の同級生がいたの。びっくりしちゃった」
「それが、この名刺の?」
「そう。名前見て、あれ?って思ったんだけど、こういう職種の人だから顎ひげとか生やしちゃってて、全然面影ないからわかんなかった。でも、向こうからもしかして……って」

デザイナーか、自分とはまったく畑違いだなと牧は思う。縁遠い界隈だ。おしゃれで洗練されたイメージしかない。

「で、終わってから、ちょっとだけお茶したの。えっと……ごめん、ふたりで。そのあとまた会社戻るってことだったから、ほんの少しだけ」
「謝ることはない。初対面の相手じゃあるまいし」

だが、いささか引っかかると言えば引っかかる。同級生── これが曲者だ。自分と麻矢に鑑みれば一目瞭然、そこから始まることもあるもあるのだから。
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