【桜魔ヶ刻々生命線】
□一.『恋哀歌 前編』
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――当時、まだ師が三蔵法師だった頃。
そして俺の名が『江流』だった頃。
俺は師に使いを頼まれた。
「あの岩山に仏像があるんですよ。そこに、供え物をしていただけませんか?」
「……はい」
…今考えれば使いというよりも雑用の何かだった気がするが、ガキだった俺は言われるままにその険しい岩山を登った。
頂上まで登る途中に、確かにそこには仏像があった。
しかしその仏像は随分と朽ち果て、原形を留めていなかった。
「…まぁ…供えれば十分だ」
そう思い供え物をして、さっさと帰ろうとしたときに、頂上には何かあるのか、と、俺の好奇心が動いた。
「行ってみるか…」
そして好奇心のままに頂上へ向かうと、そこには岩だけでできた牢のようなものがあった。
丁度、悟空が閉じ込められていたものと同じようなものだ。
ゆっくりと近づいてみた。
その中には、長髪のやせ細った男が閉じ込められ、眠っていた。
歳は、おそらく今の俺と同じくらいの男だ。
「…おい、起きろ」
俺はその男に命令口調で牢越しに話しかけた。
男はその声に驚いたのか、ビクンと飛び上がり、ゆっくりその眼を見開いた。
その眼だけは覚えている。
全てに絶望したかのような、長い年月を見てきたような、だがその奥に慈悲を兼ね備えたかのような眼…。
その眼に、俺はしばし見とれた。
男は俺に近づき、未だにその眼を見開いている。
ここに人が来ることが初めてであるかのように。
「お前…名は」
「………、……」
「…喋れんのか?」
「……!」
今まで言葉を発することが出来ていたようだが、ずっと人と会話していなかったから声が出なくなっていた。無理もない。
「しかたない、相槌で答えろ」
そう言うと、男はうなずいた。
「ここに長い間、閉じ込められているのか」
男はゆっくりうなずいた。
「何か罪でも犯したのか」
男は首を横に振った。
どうやら、言われもない罪で閉じ込められたらしい。
「…ここで人間に会うのは初めてか」
男はうなずいた。
確かに、こんな岩山に人が閉じ込められているなんて、思いもしないだろう。
「飯は食ってないのか」
男はうなずいた。
…よくここまで耐えているものだ。
俺は持っていた菓子を差し出した。
「食え」
「……?」
「いいから食え」
男はそれに従い、牢越しにそれを受け取った。
その腕は、今にも折れそうなほど細かった。
食べる仕草は実に上品で、罪など犯す者では決してないとうかがえる。
「…言い忘れてたが、俺の名は『江流』だ」
「!!!」
男は、俺の名に聞き覚えがあるかのような反応を見せた。
だがそれはすぐに無表情へと戻った。
…丁度いい。いい加減修行ばかりの日々にも飽きたところだ。
俺は思いついた。
こいつに、毎日会いに行こうと。
お供え物をしてくると言えば、大抵ごまかしはきくだろう。
「明日は…握り飯でも持ってきてやる」
「……?」
「明日もお前に会いに行くといっているんだ」
「………!」
男はたちまち笑顔になった。
例えるなら、それは桜の花のようだ。
それから俺は暇さえあれば寺を抜け出し、男のもとへ食い物を持って会いに行った。
俺を見かけると、男はふにゃりと微笑み、俺の訪れを待っていたようだった。
「俺に会えるのがそんなに嬉しいか?」
男は、はにかみながらうなずいた。
…この男が、罪など犯せるわけがない。
それが確信を得たのは、いつものように俺が男に会いに、岩山を駆け上っているときだった。
俺はその途中で躓き、転んで足を怪我した。
「痛っ…」
別に気にせずとも良かったのだが、その怪我を見たときの男は、眼を大きく見開いた。
そして俺の足に触れ、すがりつくように泣いた。
…心配しているのか。この俺を。
「…気にするな。次からは気をつける」
そう言って頭を撫でると、涙を目に浮かべたまま、うっとりと優しく微笑んだ。
その時、俺は決めた。
「お前をここから出してやる」
「…!」
この優しい男を外に出してやりたい。
こんな気持ちになったのは初めてだ。
「だからその日まで待っていろ」
「………、…………………………」
男は、今まで以上に笑顔だった。
…その笑顔に、俺は癒されていたといっても過言ではない。
「…という訳です。和尚さま」
「分かっていましたよ江流。しかしサボるためにしたはずが、まさか"恋着"がついてしまうとはね…」
…それを言うなら『愛着』じゃないのか。
笑顔の師の言葉を疑問に思うも、師をあの岩山の頂上へ案内する。
しかしその男の様子は、いつもと違った。
うずくまり、呼吸が荒くなっている。
「…!おい、しっかりしろ!」
「おや…熱でも出したようですね」
俺が触れようとすると、男はその手を払った。
そしていつものように微笑んだ。
心配するな、とでも言いたいのだろう。
「…江流、どいてください」
師はそう言うと、岩で出来た牢を念で壊し、男を開放した。
そして男をひょいと抱きかかえた。
「さぁ江流、急いで戻りますよ」
「…はい!」
「…………?」
「安心しろ、必ず助ける」
自分がこの程度のことで必死になったことは今までにありえなかった。
この男は、俺にないものを沢山くれる。
だから必ず助ける。
…『サボりに会いに行く』と言う主旨が、一体どこですり替わったのだろうか。