奇々怪々夜伽

□開幕・裏
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襖を少し開ければ、縁側からは月が善く見える。偶には酒の無い月見と洒落込むのも乙な物だ。
何杯飲んだだろうか。僕は白湯とさして変わらなくなった出涸らしを啜った。何しろずく無しな物で、立ち上がって茶葉を代えに行くのすら億劫に思って居たらもはやそれは茶とは呼べぬ代物になっていた。
出し切ったであろう茶葉が入っていた急須にまた熱湯を注ぐ。辛うじて色は茶の色をしている。
まだ飲める。僕の判断基準は味ではなく色になっていた。


「これで後二、三杯は飲んでいられる」


只でさえまだ蒸し暑さの残る季節に熱い茶を飲んでいるんだ。一度畳に胡坐を掻けば忽ち根が生えてしまう。人間とはそう言う物だ。少なくとも僕は。
お茶が淹れ過ぎて出涸らしに変わる物ならば、僕は畳に座ると根が生える者と言う法則が当たり前の様に出来上がるだろう。


「あら、貴方はまたこんな出涸らしばかり」

「姉さんもどうだね」

「こんな色の付いただけの白湯、喜んで飲む人がありますか」


姉さんは僕の目の前から急須を取り上げると、台所へ持っていき茶葉を捨てた。茶筒を取り出し新しい茶葉を急須へ三杯、口当たりの良い温度のお湯を注ぎ湯呑みへ。それは紛れもなくお茶色の白湯ではなく茶であった。


「何度も云うでしょう。お茶は熱してすぐのお湯を淹れるのではなく少し冷ましてから淹れなさいと」

「僕ァせっかちなんだ」

「それでいてずくが無いと来てる。貴方を亭主に持つ未来の御夫人が不憫でならないわ」

「僕は毎日小言を聞かされる姉さんの未来の亭主が不憫でならないよ」


誤解して欲しく無いが、僕ら姉弟は決して仲が悪い訳では無い。喧嘩する程どうとやらと云うじゃないか。
それに、この広い家にもうたった二人きりの肉親になってしまった。仲良くしておいた方が何かと得である。それは姉さんも承知している筈だ。


「しかし貴方、切れた電球はいつ替えるつもり?」

「その内やるさ」

「私じゃ背が届かないとあれ程云ったでしょう?」

「姉さんが替えを買って来たらばすぐやるさ」

「それも私は電工の類は分からないと云ったわ」

「御覧よ。月があんなに明るいのに電気なんぞ勿体無いと思わないか?」


姉さんは開いた襖から外を見ると一瞬何かを思い出したのか頬を染めた。


「またそうはぐらかす」

「姉さんもはぐらかしているじゃないか。僕は知ってるぜ。見ていたのだから」

「何を」

「良い人が居るんだろ?その人に『月が綺麗ですね』とでも云われたのかい?小洒落た髪留めか、時代錯誤な簪でも貰ったのかい?」

「厭な弟を持ったわ」

「その人からの文を待っているんだろ?」

「貴方は電球を直す事だけ考えて頂戴」


姉さんは豪快に茶を飲むと注ぎ足した。黙って静かに動作すれば美人なのだが、いざ動き出すとまるで猛牛の様でいけない。
そんな姉さんに惚れたらしい男を夜更けに見た。普通、家人の寝る時間に訪ねに来る等非常識だが、彼の仕事は夜中まで掛かるようだ。加えて勤勉で期待されている。だから夜更けでないと出て来られぬのだ。
姉さんのあんな女らしい顔は初めてだ。それが今日みたいに月が綺麗な夜なのだから、だからこそわざわざ月明かりだけで夜を過ごす僕に少し感謝をして欲しいくらいだ。
現に姉さんは月を見て思いを馳せている。
茶がまた段々と白湯に近付く。僕は月を見ながらふいに口を開いた。


「姉さん、暑くないか」

「まだまだ暑いもの。こんなところでじっと座る貴方の気が知れないわ」

「そんな夜におあつらえ向きの物があるんだが」

「また近所の方から怪談話でも聞いたとか云うのでしょう?」

「ご明察だ。しかし怪談話だけじゃあないぜ。昔話も耳嚢もだ」

「耳嚢?」

「ご存知でないかい?古来より雑談等から人伝に伝わる話の事を指すのだよ」

「本当に起きた怪談話を話すのね。私はそう云うのは厭だと云って居るのに」

「何もおっかない話ばかりじゃあない。男女の営みの信じられない奇妙な話から愉快な話まである」

「全くこの下品な弟は。女性になんて事を」

「じゃあ、姉さんでも聞ける様に登場人物を限定しようじゃあ無いか。そうだな…今日聞いた中で一番面白かったのは薬売りとその付き人であり恋人の女の話だ」

「好きにして頂戴。貴方は浄瑠璃でもすれば良いと思う程に話がお上手だからね」


明かりのみの音の無い空間。風が心地よい。
僕は言い出したは善いが、花売りの話にすれば善かったかとふと思った。その方が何かと都合が善いからだ。まあ言い出した以上仕様がない。
僕は口を開いた。


「男は薬売りだ。だが、副業の様な物で祓いも行える。耳が少し尖っていて人間のそれには見えぬ。そして施された美しい化粧に負けず劣らずの美丈夫だ。だが男が祓えるものは限定されている。対して女は表向きは薬売り見習いだが、こちらも副業に祓いを行う。女は薬売りに祓えぬ物を祓えるものだから二人が日夜離れずにいるのは自然な事だった」

「薬売りがお祓いねぇ」

「この二人を主軸にした耳嚢やら昔話やらを夜伽にでもしようじゃないか。何、少し脚色はするが、夜中に廁に行くのに遜色無いくらいにしておくよ」

「大きなお世話よ」


僕は月の明かりを眺めながら話し始めた。
薬売りの男とその恋人の女を用いた話を。
静かな静かな夜だった。

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