殺戮の天使 Revive Return

□眠れる檻の野獣
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 汚水や生ゴミの流れいく場所。

 地下道の空気は濁り、虫やネズミの巣窟とかしていた。

グレイ「今のうちに鼻栓をしておけ。今後は更に酷くなるぞ」

ザック「別に構わねぇよ。こういう臭いは慣れてんだ。さっさと進め」

グレイ「…………」

 ザックは鼻栓をしなかった。

 ゴム製の鼻栓を鼻に詰めたグレイだったが、実を言えば“臭いから”というのが理由ではない。

 鼻栓をしていなければ耐えられなくなるのは今ではないのだ。

 ザックの身を襲う地獄は、この下水道の向こう側で待っている。

ザック「…………」

 下水道に設けられた足場を進むこと、僅か数分。

 最初の異変が訪れた。

ザック「……?」

グレイ「…………」

 グレイは何ともない様子だったが、ザックは胸を締め付けられるような息苦しさを感じている。

 続いて襲ってきたのは、こめかみ辺りに広がる鈍痛。

 更に息苦しさは度合いを増して、今では呼吸器を締め上げられるような痛みまで訴えている始末だった。

ザック「…ッ……ぁ…ッ、う」

グレイ「…? ザック……」

 異変に気付いたグレイが後ろを振り返り、そこでザックがまだ鼻栓をしていない状況に気付いた。

グレイ「ザック。チェシャ猫から貰った鼻栓を詰めなさい」

ザック「…は…ぁあ?」

グレイ「ここの臭気濃度は異常だ。ものの数分でも吸い続ければ吐き気や目眩程度の症状は引き起こすだろう」

 それは呼吸すら難しい環境だ。

 ガスマスクの一つでも用意するべきはずだが、どうして鼻栓のみの防具なのだろう。

 それ以前に、口呼吸で臭気を吸っているはずのグレイには何故ザックのような症状が現れていないのだろう。

 疑問は尽きなかったが、とりあえず鼻栓で苦しみから逃れられることはグレイが証明している。

 ポケットに手を入れて鼻栓を取り出し、半ば強引に鼻の中へと押し込んだ。

グレイ「吸ってしまったものは仕方がない。しばらくは苦しいだろうが、これ以上ひどくなることはないだろう」

ザック「…く……ッ。なんで、てめえは平気なんだ…?」

グレイ「…ただの臭気ではないのだよ、この臭いは」

 鼻栓をして少し落ち着くと同時にザックは思い出した。

 今、グレイと共に行動していた行き先の用件を。

ザック「ち、ちょっと待て!」

グレイ「む?」

ザック「俺たちは今“誰かに会いに行こうとしてる”んだよなぁ!?」

グレイ「そうだが、それがどうしたというのかね?」

 思い返して確認したものの、それは信じられないことだった。

 わざわざマンホールの蓋を開けて下水道を通っているからには、地上を歩いていても意味がないということ。

 であるならば、目的の人物は地下にいるのだ。



 それも……こんな“息をするだけでも異常に苦しい場所”に。



ザック「こんなところに住んでる野郎がいるってのか!? マジでバカなんじゃねぇのか、そいつぁ!!」

グレイ「そう思うのも無理はない。だが、目的の者の“今の”住処はここらしい」

ザック「あぁ? 今の、だと?」

グレイ「その者は不定期に住処を変えては徘徊しているのだ。行動範囲の大半は、このような下水道を主とする地下ばかり。地上に顔を出すこともあるらしいが、まぁそんな日は滅多にないのだろう」

ザック「…マジかよ……」

 とんでもない異人だ。

 先に進めば進むほど臭気の濃度が高まっていくのが分かる。

 こんな場所でどうやって生活しているのだろうかと、あのザックでも少なからずの興味を示し始めてしまうほどだ。

グレイ「もうすぐだ」

ザック「……」

 やがて二人の目の前に大きな檻が現れる。

 ここは昔、下水道で仕事をしていた作業員たちの道具を保管する場所として使われていたようだ。

 またその広さを活用し、作業員たちの休憩所としても機能していた。

 そのため最低限の設備が用意されていたようだが、今となっては正規で使われることもない。

 ここは今、とある大男の寝床として機能しており、その者がいる限りは誰も近寄らないからだ。

ザック「……?」

 耳を澄ませてみれば、この檻の向こうからイビキが聞こえる。

グレイ「名を“ジャック・エスポジード”といい、通称“フリッツ”と呼ばれている男だ」

ザック「はぁ? なんだそりゃ」

 ジャックという本名とフリッツという愛称。

 確かチェシャ猫は“フリッツ”の名で紹介していたと思うが、どう考えても本名と結びつくような愛称ではない。

グレイ「あだ名とはそういうものだ。それに、誰も彼もが本名を正直に明かしているわけではない。私のようにな」

ザック「なんだ、お前の名前も嘘っぱちかよ」

グレイ「この“グレイ”という名は偽名だ。さて、そんなことよりも……まずは目の前の用事を片付けるとしようか」

 檻に南京錠は掛かっていない。

 錆びかけている鉄格子は、音は立てるものの大きな抵抗はなく、押せば簡単に開いていった。

 檻の奥へと足を進めれば進めるほど、この領域に満ちる臭気は異常さを増していく。

グレイ「鼻栓程度で症状を軽減できる理由だが、ここにその理由がある」

ザック「……どういうことだ?」

グレイ「この下水道に満ちていた臭気の正体だが、それらは全てフリッツの体臭だ」

ザック「はあ!?」

グレイ「だが奴の体内構造は、私たちのものとは大きく異なっていてな。いまだに解明されていない部分も多いが、この体臭から発せられる成分は“鼻から摂取することで毒化する”ことは分かっている」

 つまり、この下水道に充満しているフリッツの異常な体臭は、口で吸う分には無害ということだ。

 鼻呼吸が基本の人間にとっては苦しい状況だが、口呼吸が可能ならば大きな問題にはならない。

ザック「何でこんなに臭ぇんだ? それも普通とは狂ってる体ん中が問題なのか?」

グレイ「……いいや」

 この異常な体臭の原因は、グレイの言った“普通ではない体内構造”とは関係がない。

 普通ではない体内構造から生まれた問題は、あくまでも体臭の成分のみ。

 では、この異常な濃度の原因とは……。





グレイ「奴は食事以外、ほぼ眠って一日を過ごしている。風呂に入る時間さえ削ってな」

ザック「ーーーバカかよッ!! きったねぇなぁッ!!」





 やがて二人は檻の最奥に到達する。

 そこにいたのは、全長二メートルを越える大柄の大男。

 例えるならば、冬眠中のクマ。

 ザックやグレイと比べて随分と大きな体と胸を上下させながら、ジャック・エスポジードことフリッツは大口を開けて眠っている。

フリッツ「ンゴォォォオオオオオッ!! スピスピスピスピ……ッ」

グレイ「どれ、まずは起こさねばならんな」

ザック「はぁ…、めんどくせぇ…」







 フリッツは、殺人鬼だ。

 あまり表立った活動はしていないが、一度の殺しで稼ぐ金額は大きく、数十日分の生活費を一気に手に入れてしまうほどの実力を持つ。

 その反面、性格は意外にも温厚で、自ら争いごとに首を突っ込むような真似もしない。

 穏やかな時間と自由を愛し、昼寝を趣味とするノンビリ屋。

 それが、ジャック・エスポジード。

 通称“フリッツ”の人柄だった。

グレイ「さて、どうやって起こすべきか」

ザック「殺人鬼なんだろ、こいつ。面倒事はごめんだぜ」

グレイ「それは私とて同じこと……ん?」

 そんなフリッツをどうやって起こそうかと悩んでいた二人の前で、当人の体がモゾッと揺れた。
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