思いつくままに。
□冬。
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フロントガラス越しに三日月が車内を静かに照らしていた。
繋がれた手からお互いの体温を感じとる。
手先が冷えていた。
寒いかと訪ねると首を横に振った。
動きに合わせてポニーテールが揺れる。
さっき履き替えたからとはにかんでいた。
白のショートパンツからジャージに履き替えていた。
11月中旬にも関わらず彼女はストッキングを履かない。
常に素足でいる。
何かポリシーでもあるのか特に気にしたことはなかった。気にならないほどに、彼女にはその様子が似合うのだろう。
こちらの具合を聞き返すように顔を覗きこまれる。
彼女の真っ直ぐな瞳に覗きこまれると、つい目を逸らしてしまいたくなる。
彼女の持っている素直さが私の中の後ろめたさや卑怯な部分を突いてくるからだろう。
大丈夫だと答えたが、足下を指差された。
サンダルに素足であることを抗議しているのだろう。
家の玄関から車に乗り込む際に靴下は履いてこなくていいのかと何度も問われていた。
いいのだと振り切ったが、未だにその事を気にしているらしい。
「絶対寒いよ。」
彼女が眉間にしわをよせる。
「大丈夫だって。家帰ったらもう裸足でいたいの。」
幼い頃からの習慣で家に帰ると直ぐに靴下を脱いで洗濯機に放り込んでいたせいか、今でも外から帰ると靴下をすぐさま、脱ぎ捨てたくなってしまう。
長時間靴下を履き続けることに違和感を感じてしまうのだ。
彼女は唇を尖らせてブランケットを差し出してきた。
受け取り、膝にかけると早速じんわりと暖かさが広まった。
自分の体がいかに冷えていたのか思い知らされた。
「あったかいでしょ?バイト先でもらったんだー。イベントの展示用のやつだから、非売品のやつだったんだけど、あたしがね、じーっと見てたから店長が持ってけって。」
「どんだけ欲しそうな顔してたの。」
「だって、くまさんかわいかったんだもん。」
見るとブランケットには茶色の熊の顔が大きくプリントしてあった。
断面がもこもこしていて、肌触りが良い。
「これすっごくもこもこしてて気持ちいいんだー。」
ブランケットの端を持ち上げると顔にすり付けた。
幸せそうに擦り寄せ続けるので、私の膝からはほとんどブランケットはなくなっていた。
「あっ、ごめんっ。」
申し訳なさそうに謝るが、その頬にはしっかりとブランケットが当てられていた。
「本当に思ってる?」
「だって、きもちいいんだもーん。」
さっきよりも激しく頬にブランケットを擦り付ける。
「やってみなよ!」
「別にいいよ。」
ぐいっと、鼻先にブランケットを突き出してきた。
彼女のものとは違う匂いが鼻に入ってくる。
思わず、自ら鼻を押し付けた。
気持ちいいでしょ、と彼女の嬉々とした声がする。
「ねぇ、これ、洗ったの?」
聞きながらブランケットから顔を離して彼女を見ると、そっぽを向いていた。
「うん、洗ったよ。洗ってから車に乗せたんだもん。」
「ふーん。」
明らかに嘘の証言だが、これでも彼女は嘘が上手くなったと思う。
出会った頃は嘘と言うものを知らないのではないかと思うくらい、嘘を吐くのが下手だった。
散々馬鹿にして、面白がって嘘を仕掛ける遊びを私がしたせいで、彼女も嘘と言うものを覚えていったのだろう。
「誰が触ったか分かんないんだから洗ってからにしな。」
後部座席にブランケットを丸めて放り投げた。
瞬間、彼女が目を見開いてブランケットを引っ張り出した。
「なんてことするの!こんなにあったかくて、可愛いのに!綺麗だもん!」
「展示してあったんでしょ?お客さんに見てもらえるように、触れるところに設置してあったんじゃないの?」
彼女はブランケットを握りしめて俯いた。
薄い唇をこれでもかと尖らせていた。
拗ねたときや怒ったときによくやる表情だ。
素直なその感情表現に私の胸はいつも静かに高揚する。
可愛くて堪らないのだ。
今すぐにその唇に噛みついてしまいたい。
ブランケットなんか握らずに私の手を強く握ってほしい。
あんなに擦り寄せられたブランケットに嫉妬すら覚える。ただの布の癖に、この子の心を奪うなんぞ、生意気だ。
「知らない」
「展示してあったやつ、じーっと眺めてたから店長がくれたんじゃなかったの?」
彼女は尖らせていた唇をぐにゃりと歪めると、私の胸に飛び込んできた。
「洗ってない…。」
胸の中から押し潰された声が聞こえてきた。
「しょうもない嘘を…」
彼女が、だって、と言うと悪戯っ子の様な笑みを顔に浮かべて、くすくすと笑い出した。
私が訝しげな顔をしていると、ブランケットをばさりと頭に被せてきた。
「ちょっと!汚いじゃん!」
「汚くないもん!」
「誰が触ってるか分かんないんだよ!汚いよ!」
汚くないもんと言うのと同時に私からブランケットを奪うと私から守るようにブランケットを抱き締めた。
見ず知らずの誰かが触っていったブランケット。
そんなブランケットを頬や頭に擦り付けるなんてことは、赤の他人の手が彼女の頬や頭を触っているみたいじゃないか。
私の考え過ぎかもしれないが、そう思わずにはいられない。
いじめっこから大切なものを守るような彼女の目付き。
そんな目で見ないでほしい。
何となく嫌なものは嫌だ。
彼女に触れていいのは私だけだ。
髪も頬も手も唇も私のものでなくてはならない。
「何かやだ。色んな人が触ったやつだから、色んな人の手が付いてるみたいじゃん。知らない人に触られてるみたいで」
「何それ。」
彼女が不思議そうに私とブランケットを交互に見ている。
「何か、やなんだよ…」
そう呟き、私はフロントガラスに目を逸らした。
フロントガラスは外気と車内の温度差でいつの間にか曇っていた。
曇ったガラスから見える三日月には雲がかかり、ぼんやりとした光が空を照らしていた。
彼女は私にとって大切な宝石のようなものだ。
世界に一つだけしか存在しない、大事な大事な宝物。
そんな大切なものを何処かに隠して自分だけにしか触れられないようにしたいと思うのは、ごく自然な感情ではないだろうか。
やがて彼女はくすくすと笑い出し、また悪戯っ子の様な笑みを浮かべて
「やきもちでも妬いてるの?」
と、尋ねてきた。
やきもち、だなんてそんな可愛いものじゃない。
これは、独占欲とか支配心とかそんな感情にも部類する身勝手さそのものだ。
彼女がまたくすくすと笑う。
「そっか、そっか、あたしは何処にも行かないからね。」
そう言って私の頭を両手でくしゃくしゃと撫で回してきた。
犬にでもなったような気分だ。
飼い犬でも見るかのような愛しさが込められた眼差しだった。
彼女が頬を擦り寄せ肩に優しく腕を回してきた。
彼女のシャンプーの匂いが鼻先に漂う。
背中に手を回し私は瞳を閉じた。
そっと心が満たされていくのと同時に、もっと彼女が欲しいと支配心が顔を出す。
それはどろっとしていて水に流された油のように混ざり合うことなくそこに漂い続ける。
色で言うならば黒あたりだろう。
心が徐々にだが確実にそれに侵食されていく。
頭では、ああ、こんな醜い感情嫌だなと思いながら感情を止めることは中々難しい。
もっとふらっとに彼女と向き合えたらと思う。
この先どうなるんだろうとか、いつかは別れがくるのだろうかとか、どうしても余計なことばかり考えてしまう。
その結果として何かを得られるわけでも、未来が変えられるわけでも無い。
むしろ感傷的な気分になって彼女を傷つけてしまうようなことが常だ。
彼女の手は優しい。温もりが冷えた体を包み込んでくれる。
鼻筋を彼女の首筋に擦り付けた。静かに彼女が首を伸ばす。
色が白くてきめの細かな肌だった。
伸ばされた首筋にそっと唇を落とした。