citron

□空とあなたのほしいもの。
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***847***

 ああ、あの空が青かったらなあ。ぽつんと取り残されたかのような呟きが唇から零れた。特に何の意味もない言葉だったが、その隣で揺れる黒い髪に映った反射光のせいでそこに意味が生まれてしまう。
 ハンジはいつもそうするように、さらりとその髪に触れた。視線だけで反応する彼には今のこの感情を覗き込まれた気がした。

「どうした、クソメガネ。クソでも詰まってんのか」

 お決まりのその言葉の意味はもういつからか分かるようになっていた。素直にそうだと言えない人だから、こうして罵声にも取れるような言葉が投げ掛けられる。口が悪いのが相まって。

「ううん、私は大丈夫だよ」

 彼なりの『大丈夫か』という心配はいつだって空回っている。ただ、願わくばこんな事を他の誰かに言ってほしくなかった。ハンジなりの独占欲は、上手く言葉に出来なかった。
 素直になれないのは自分も同じだと苦笑する。だけど自分が素直に言葉を紡ぐことは、すべきではないことだ。
 何を笑っているんだと言わんばかりにその眉間に皺が増える。その骨張った男の手が伸びて、茶色い髪を掴んだ。

「風呂、入ったのか」

「うん。ちゃんと髪だって洗ったよ。今日は巨人に会えるからね」

 わしわしと力強く頭を撫でてくる彼にハンジはいつもの調子で返した。捧げたはずの心臓の音がする。もしかすれば今日、明日にでもこの音は止まってしまうかもしれない。もう二度とこんな軽口を叩けないかもしれない。

「この奇行種が……」

「うん、でもやっぱりーー」

 彼に本心を伝えることは今もこの先も決してないのだろう。もし、そんな日が来ると仮定するのであればずっと先になるだろう。自分の命はこの兵団に捧げられているのだから。
 この選択にはこの先悔いることがないはずだ、そうであるべきなのである。後悔という概念を捨てた時から。彼が全ての命を守ろうと立ち上がり、その背を任された時から。

「あなたが生きて帰れるくらいに私は頑張るよ」

 ニッと笑えば、その手はくしゃくしゃと髪を雑に撫でて離れていく。その手が、その瞳が、心が欲しいと思ったのはそう遠くはない以前のことだった。その思いを今でも捨てきれずに持っている。

「俺が、テメェの女が食われんのを許す訳ねぇだろうが」

「あはは。なにそれ、兵長殿の公開プロポーズと受け取っていいのかな」

 ハンジの茶化すような言葉に彼は舌打ちする。嬉しくない訳はないが、これから向かうのは壁外なのだ。彼に自分を守るという選択はさせたくない、させるべきではない。
 険しい顔をしている彼にハンジは微笑みを向けた。何度も何度も練習してきた、薄っぺらい嘘で固めた作り笑いだった。
 この表情の意味に彼は気付いていたが、それをハンジに問うことは今まで一度もない。その度に彼の目の下に皺が増えるのに勿論ハンジも気付いていた。

「安心して。私にはあなたの女になったという記憶もなければ、黙って巨人に食われるほど弱くもないよ」

 その言葉はやはり素直になれない自分なりの、彼に対する返事だった。お互い似た者同士か、彼の言葉で言えば悪くない。
 この淀んだ空気を晴らすために捧げた鼓動が高鳴る。それには自分の意思など関係がない。兵士として生きて死ぬのであれば本望だろう。

「ハンジよ」

「ん? なに」

 この狭く濁りきった壁の中で生きていたくなんてない。それではただの家畜となんら変わりがない。いつからそう思うようになったのだろう。自分以外にそう思っている人間は、果たして存在しているのだろうか。

「お前の心臓はとうに無くしちまったかもしれねぇが……」

「ーー私はまだ、ここに生きているよ」

「違ぇよ。最後まで人の話を聞け」

「……うん、ごめん」

「お前に心は、残されているだろう」

 それでも、幸せなのかもしれない。本来人々はもっと多くの犠牲の上に生を紡いでいた。だからこそ幸せを幸せだと感じるのかもしれない。そう、自分に都合よく考えたこともあった。

「お前の心は、俺がもらう。そのうるせぇ感情だとか、面倒な思考だとかもな」

「……」

「だからいいか、よく覚えておけ。お前は死にたくないんじゃなくて、死ねねぇんだ。まだやり残したことが山程あるだろう」

 この空はいつだって暗く淀んでいる。手を伸ばしたって、届かないものだらけだ。
 何も掴むことの出来ない自分には受け入れられるスペースがなかっただけだろうと言い聞かせては幾つもの自分を捨ててきたというのに、それでも手に入らないのは自由だった。

「ーー今日はよく喋るんだね、リヴァイ。あんまりお喋りしてたら、オルオみたいに舌を噛んじゃうよ」

 ハンジは悪戯っぽく笑った。彼の言葉の意味は理解できていた。
 思い返せばいつだって、本当に素直じゃないのは自分の方である。彼の視線は、声はいつも真剣で真っ直ぐだった。
 その気持ちを誤魔化して、ねじ曲げて、逃げるような応えしか出来ないのはいつも自分だ。そしてそんな自分を受け入れてくれているのは紛れもなく彼だった。

「……俺は死なねぇ」

「死ぬ死なないじゃなくてさ、危ないよって言ってるんだよ」

「俺はそんなにヤワじゃねぇよ」

「ダメだよー、部下のことそんな風に言っちゃ。そんなのだから新兵達に怯えられるんだよ。本当のあなたはこんな奇行種にも優しい人なのにね」

「ーー全く、お前とは会話が成り立たねぇな」

 この空が青く、澄み渡った空気が吸い込める日まで生きていられるのだろうか。輝く太陽の下、どこまでも続く草原を走り回る姿を見ることが出来るだろうか。

「ねぇ、一つだけいいかな」

「なんだ」

「もし、私がこの心臓を取り戻すなんて日がきたならーー」
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