citron

□こわい、夢。
1ページ/1ページ

 夜の風はまだ冷たい。ふーっと息を吐き出すと、煙と私の呼息が暗闇に吸い込まれていくようだった。
 それはいつしか誰かが私によくないと言って止めたものだったけれど、私には必要なものだった。肺一杯に吸い込んだ痺れが、私を麻痺させる。ここに、あなたはもう居ないのだという変えられない事実を忘れさせてくれる。
 私はまだ、あなたの思い出にしがみついたままだ。世界は幾らか平和になったらしいけれど、私の心はどこかへ行ってしまったらしい。きっと、連れ去ったのは遠い日のあなただ。
 自らの命をなげうってまでこの世の中を守った英雄、と言えば聞こえがいい。だけれど私はあなたの被害者の一人だと思う。こうして今でも苦しめられているじゃないか。

「リヴァイ」

 私はまだ、あなたの声も手も、その温度さえ忘れられないというのに。不機嫌を装って照れくさそうに、とても柔らかい声があの時言ったのに。私をそこへ連れていってはくれなかった。
 最期のあなたは、誰かが言ったように似合わないくらいに穏やかな笑みを浮かべていたよ。私は冷たくなっていくあなたの手を離したくないと言って暴れたっけ。ああ、もうこうしてあなたのことを全て過去形にして話さなくてはいけないのか。
 愛しているという言葉はとても辛いものだ。少なくとも、今でも生きている私にとっては。聞いてほしい話だって沢山あって、どれから話せばいいのか分からないくらいにあるのに。年を取っていくのは、一方的に私だけだった。

「リヴァイはバカだ。私を置いて行かないと言ったのに」

 ねぇ、壁の穴はちゃんと綺麗に塞げたよ。それから、巨人ももういないよ。あと、エルヴィンのあとを私が引き継いで団長にもなったよ。あなたの話を聞かせてほしいと、街で何度も小さな子どもに話をせがまれたよ。子どもって可愛いんだね。あれから、もう何年が経ってしまったのかな。
 あなたが居なくなってから、暫くの間は落ち込んでいたみたいだ。前以上に食も細くなったし、研究に燃えているフリをしてたよ。ああでも、あなたが怒るといけないから部屋の片付けもお風呂も適度に入って人間らしく生きてはいるよ。あなたの元へ行けたならって何度も思ってた。
 私のあとを継いだのは誰だと思う? そう、アルミンだ。あの子は本当に頭がよくて、回りを見ることが出来るよね。エレンとミカサも結婚して、とても幸せそうだった。もちろん、結婚式にも呼ばれたよ。式では私の隣の席があなたのために空けてあったんだ、知らなかっただろう。
 あなたには、知らないことが沢山増えちゃったね。

「ねぇ、リヴァイ。返事をしてくれないか。あなた意地悪だから、聞こえていてもしてはくれないのを知ってるけどさ」

 遠くから聞こえる声はきっと空耳だろう。私はまだ少し残っている煙草の火を消した。ああ、もうこんな時間だからか。
 今あなたの事を考えているのにとても眠たくなってきたよ。風邪を引くからってまたあなたに怒られるかな。でも、とても眠たいんだ。だから、今だけ許してくれないかな。






「ーーハンジ!!」

 とても幸せな夢を見ている気がする。リヴァイが私を呼ぶ声が聞こえたから。でも、そんなに慌てているのはどうして。

「オイ、エレン! お前は医者を呼んでこい! あとモブリットはエルヴィンを呼べ! 今すぐにだ!」

 もう、そんなに怖い言い方したら皆萎縮しちゃうじゃないか。それに私はただ眠くて眠っているだけで、風邪をひいてもいないし熱だってないよ。でもエルヴィンには久しぶりに会いたいなあ。
 あ、でも今あなたが居るそっちにはエレンもモブリットも、エルヴィンだって居ないよ。ああだけどこれは夢だから、私の都合がいいように聞こえるのか。
 何より、あなたにもう一度会えたことが私は嬉しいよ、リヴァイ。

「ハンジ! ーークソッ、返事しろ! ハンジ!」

 だから、何をそんなに焦ってるんだよ。むしろ返事をしてくれないのはあなたの方じゃないか。もしかして、やっと私をそっちに連れていってくれる気になったのかな。どっちでもいいや、あなたの声が聞けたんだから。





「ーー……ああ、やっぱり夢だったんだ」

 ふと目が覚めた私は呟いた。声は喉がカラカラで掠れていて、ボロボロと涙が溢れていた。
 私が今見ているのはよく見知った兵室の天井の一つだろう。昨日、外に出たまま眠ってしまったからモブリットか誰かが部屋まで運んでくれたのだろうか。キンと耳鳴りがする。最近寝不足だったから、かな。

「ーー!! 兵長! 今すぐ来てください! ハンジさんが……ハンジさんが目を覚ましました!」

 その呼称はとても懐かしく感じた。モブリットの声ってこんなのだったっけ? どちらにせよ、起き抜けに聞くにしては頭に響くような大声だった。
 そういえば私、泣いていたっけ。見られてたなら恥ずかしいなあ。モブリットが騒いでるうちにコッソリ拭って何もなかったような顔をしておこうと、腕を上げる。

「な、にこれ……?」

 やけに怠い右腕には、眠る前にはなかったはずの傷がたくさんあった。もしかして、眠っているうちにどこかへ転げてしまったのだろうか。それでモブリットはこんなにも騒いでいるのだろうか。

「モブ、リット……ごめん。私があんなところで眠ってるからだよね、本当にごめん」

 はあ、と私は溜め息を吐く。あんな夢を見たのはきっと少しだけ死にかけたからだろう。薄ぼんやりとだけれど、リヴァイの顔が見れたんだ。
 私は痛む体を起こそうと試みる。全身がこんなにも痛むってことは、派手に屋根から落ちたりしたんだろうか。

「ハンジさん! あんた重傷者なんですから、動いちゃダメですって!」

「いてて……やだなあ、モブリットは。屋根から落ちたぐらいで。でもさあ、その代わりに私すごくいい夢を見たんだ、久しぶりに! リヴァイに会って来たんだよ!」

 慌てて駆け寄って、私を再びベッドに寝かせるモブリットに言った。あれ、モブリットってこんなに更けてなかったっけ? ズキンと頭に痛みが走る。

「お前はさっきから何をクソみてぇな事言ってやがる」

「ーーえ……?」

 聞こえるはずのない、悪態に私は耳を疑った。頭を打っておかしくなってしまったんだろうか。まさか夢から覚めてまであなたの声が聞こえるなんて。

「兵長! エルヴィン団長と医師と……あとはエレン達を呼んできます!」

「ああ、頼む。至急だ」

 バタンと勢いよく扉が閉められる音がして、モブリットが部屋を出ていったのだと分かった。しんと静かになった部屋にはコツコツと足音が響き、ふと見上げると私の視界には見えるはずのないあなたの姿が映った。おかしくなったんじゃないかと自分を疑ったり、驚くよりも、先にまた涙が溢れてきた。一体、どういうことなんだろう。

「お前……死んだかと思ったじゃねぇか。俺を殺す気か、このクソメガネ」

 私の顔を覗き込んでいるのは、紛れもないリヴァイだった。凶悪に見える目元には私が知っているよりも濃くなったクマ、そして僅かに赤らんでいる。

「どういう、こと?」

 私の思考は追い付かなかった。ぼーっと、その誰よりも会いたいと思っていたその姿を見ていた。筋肉質な腕が伸びて、ゴツゴツした手が私の頬を撫でる。その皮膚は少しだけ荒れていて、私が最期に繋いだ手のように冷たくはなかった。

「どうして、あなたがここにいるの? ねぇ、これはまた夢? それとも私、本当に死んじゃった? また、あなたに会えるなんてさあ」

 ぽたり、と頬に温かな水滴が降ってきた。夢だったとしたら、かなりリアルな夢だ。神様から私への頑張ってきたご褒美なんだろうか。

「夢な訳あるか。お前は、この前の戦いで重傷を負ってずっと意識がねぇ状態だった。一度だけ意識が戻ったかと思ったら、また昏睡状態だ。ーー俺の気も知らないでな」

「えっ、ちょっと、リヴァイ……何なのこれ、意味わかんな……」

 益々混乱する私にリヴァイは舌打ちをした。私は重たい両腕を伸ばして、その顔に探るように触れた。

「死ななくて良かった、お前が」

 ベッドと背中の間にリヴァイの腕が滑り込んできて、ゆっくりと体が起こされる。まだこれが現実だと言われても理解が出来なかった。でも、ぎゅっと抱き締めてくるその体からは、懐かしいあのリヴァイのにおいがする。これが夢だったら、目覚めた私はまたあの過去に縛られて動けなくなってしまうんだろう。

「リヴァイ……ねぇ、リヴァイ。あなた、生きてるの?」

 俄には信じられない事だったけれど、私はその体を恐る恐る抱き締め返した。至近距離で私を見ているはずなのに、その灰色の瞳がぼやけている。

「俺は、あの時に言っただろうが。お前を置いて行かないと。まさか、お前が俺を置いて行く可能性なんて考えたことすらなかった」

 リヴァイの声は柄にもなく震えている。私はそっと、記憶の中にあるより少し長くなったその前髪が目にかかるのを払った。渇いたリヴァイの唇が触れる。私の記憶の中にあるどのキスよりも余裕がないようなそれだった。

「俺を置いて、死んでくれるな。ハンジよ」




 ーー8XXーー

「ねぇ、私知ってたんだけど」

 ふと、思い出した私はその横顔に話し掛けた。あれから何年かが経って、あの鬼の兵長があんなに優しい顔をするようになるなんてと回りからは違った意味で怖がられるようになったリヴァイは私と視線を合わせた。

「エルヴィンのあとを私が継いで、更にそのあとをアルミンが継いでさ。エレンとミカサの結婚式では私の隣にあなたの席があることとか」

「……そこに俺は居たのか」

「ううん、あなたは死んじゃったから居なかったよ。だから私は随分荒れちゃっててね、モブリットなんて本当に胃に穴があいてしばらく寝込んじゃったくらい」

 たまにこうして本当の夢だった方の記憶を思い出すことがある。それは、この世界に平和が訪れたと言われている今でも。時々は、こっちが夢なんじゃないかと不安になる事もあるけれど、隣でまだまだ不器用に笑うその姿を見る度に安心させられた。
 きゃあきゃあと騒ぐ子ども達の声がする。時折転んでは痛いと泣くものだから、それを抱えて慰めてやる。

「ほらほら、泣かないでー。お父さんみたいになるんでしょ?」

「……うん」

「ほら、あなたは笑顔が一番素敵だよ。お父さんなんかね、怖い顔してるけど、毎晩あなたが寝た後に必ず言うんだよ。あなたが一番可愛いって」

「オイ」

 すっかり泥だらけになった子どもを膝の上に乗せて話し掛ければ、いつの間にか涙は引っ込んでしまっている。私にも彼にも、どちらにも似たその顔は父親である彼の方を向いて尋ねた。

「ねぇ、お父さんは人類最強って言われてたんでしょう?」

 愛らしいその言葉に、自然と私の目から涙が零れた。隣に居るリヴァイがくしゃりと柔らかい黒髪を撫でている。ぽつりと落ちたその滴に気付いたそっくりな二人が不思議そうに私を見た。だけどまさか、この言葉をわが子から聞く日が来るだなんて思いもよらなかった。

「? お母さん、泣いてるの? どこか痛いの?」

「ううん、違うよ。お母さんね、お父さんが居て、あなたに出会えたことがすごく嬉しいんだ」

 あの記憶と違っていたのは、彼が生きているということ。そして私が、今とても幸せだということだった。
 あの日見上げた暗闇を、また一人で見上げる日なんて来なければいいのに。私は腕の中の小さな体をぎゅっと抱き締めた。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ