citron

□ダフネ
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 いつの間にか溜まっていた書類の山を片付けてしまおうと、リヴァイは一枚ずつそれに目を通していた。先日の壁外調査の報告書、上に上げなくてはならない書類、あとは自分のサインを待つだけのもの。黙々と作業を続けていたためか、始めた頃より幾分少なくなっている。
 そろそろ集中力も途切れかけていた。紅茶でも入れて一息つこうかと席を立った。
 窓から柔らかな陽光が自室を照らしている。もう後数時間もすれば陽は落ちて、晴れやかな空は赤く燃えたように色付くだろう。
 ふとそんな時にリヴァイの思考に入り込んでくるのは、あの曇りのない笑顔で子どものようにはしゃぐ彼女の姿だった。ふわりと湯気と共に薫り立つ カップに口を付けながら、彼女は今何をしているだろうかという思いに耽る。
 そして数日前、彼女がこの部屋を訪れた際に手渡された書物が机の隅に追いやられていた事を思い出す。読書をしているような時間もなければそういった趣味も彼にはないと、その場で断ったのだが彼女は半ば押し付けるかのようにリヴァイにその本を渡して去って行ったのである。
 思い出したついでだと、古びた硬い本を手に取ってみたがやはりあまり興味はそそられなかった。きっと彼女のことだ、禁書か何かだろう。パラパラとあまり保存の状態がいいとは言えないページを捲る。

「……何だ、これは」

 数ページ目に届いたところで、まるで栞のように一枚の葉が挟まれていることに気付く。乾燥したそれに触れると、仄かに芳香を感じた。本を食う虫除けか何かだろうか。
 いかんせん、本に興味のないリヴァイにはその葉の正体も、その理由にも思い当たる物はなかった。
 まだ温かさが残る琥珀色を飲み干し、特に読んでいた訳でもない本を閉じる。その表紙には題名が記されていたが、余計に興味がそそられないとリヴァイは鼻を鳴らした。



 コツコツと静かな廊下に靴音が響く。すっかり外は暗くなり、食事の時間も終わった今では他に出歩いている者の姿はなかった。
 別に急を要する事ではない。だがしかし、珍しく今日は一度も部屋を訪れなかった彼女の部屋まで自ら赴くというのもたまにはいいだろう。了承を得る必要性は感じられないが、一応の礼儀として三度その扉を叩く。返事はない。

「入るぞ」

 一言断りを入れてから閉ざされた扉を開いた。予想通り、一心に机に向かって何か書き物をしている背中が見える。

「やあ、リヴァイ。こんな夜中にどうしたの? あ、もしかして今日は私に会えなくって寂しかったのかな?」

 カリカリと動く手は止めないまま、机に向かったまま視線をこちらへ向けることもなく彼女は軽口交じりに尋ねた。リヴァイは舌打ちをする。あながちその言葉は間違いでもないような気がしたからだ。

「もう暫く掛かるか」

「んー……そうだねぇ、あともうちょっとなんだけど。まあいいや、あなたの用事を優先してあげよう」

 自らの軽口を受け流して尋ね返した彼に彼女は口許を綻ばせる。実際、もう少し続けていたかったという心残りはあるが、こうして彼が掃除という目的以外で部屋を訪ねてくるというのは貴重な体験でもある。

「紅茶でも入れようか? それとも、もうこんな時間だしお酒でも飲むかい?」

 書きかけの手帳に栞を挟んでハンジは言った。酒はいいと返した彼のために、どれにしようかと数種類あるうちの茶葉を選ぶことにする。
 湯を沸かそうとしてやっと彼の方へ振り向いた彼女は、ふとリヴァイが手にしている本に気付いた。そしてその用事が何だったのか思い当たって、口許が弛む。

「その本、あなたは興味がなさそうだなって思ったんだ。でも、読んでみればなかなかおもしろい物だったよ」

 先程問い掛けたきり口を開かないリヴァイの隣にハンジは腰掛けた。彼が掛けていたのは側にあるベッドで、あまりいいものとは言えないスプリングが二人分の重みでギッと軋む。
 ハンジには彼が先日押し付けるように渡した本を読んできたとは思えなかったが、業務に終われる一日の中で彼女を思い出す瞬間が彼にも存在していたということが嬉しかった。
 少し低い位置から見てくる彼の表情はいつもと変わらなかったが、どこか柔らかいのをハンジは知っている。人類最強といえども、彼女からしてみれば彼もただの男なのだ。

「俺の趣味じゃねぇ上に読む暇もないと言ったはずだが。とにかく、忘れないうちに返してやろうと思ってな」

「もったいないことするね、きっといつか読まなかった自分に後悔するよ」

 ふふ、と笑みを零したハンジは寄り添うように彼にもたれかかる。彼女よりも幾分高い体温を感じた。
 返すと言って差し出された古い本を受け取った彼女はその古びた背表紙を指先でそっと慈しむように撫でた。あまり状態がいいとは言えなかったが、先日出向いた馴染みの本屋で手に入れたものだった。
 初めは彼女にとっても大して興味が持てそうにない内容だった。古い時代に綴られた、という点以外には。しかし、ある一節を目にして思わず何度も読み返す事になったのだ。

「それより、その本に挟んでいた葉は何だ」

「ん? ああ、これだね」

 リヴァイからの問いに一度首を傾げた彼女だったが、すぐに思い当たって本を開いた。数ページ目に挟まれていた一枚の葉を手にすると、彼の目の前に翳す。

「これは、月桂樹の葉だよ。食事にも、肉料理の臭み消しに使われたりしてる。こんな時代ではそうそう滅多に使われているところを目にすることもないけどね。変わった薫りがするだろう?」

「ああ、虫除けか何かか」

「あはは、やっぱり一つも読んでなかったんだね。これは、このページにある一節があまりにも素敵だったから挟んでおいたんだよ」

 予想通りの言葉を気にするでもなく、彼女はカラリと笑う。内容に興味がなかったリヴァイだが、その言葉の意味には興味を持った。滑らかに古い紙面を撫でるその細い指先を視線で追う。

「ある男がさ、一人の女に恋をしたんだ。だけど、女は男からの愛を拒絶して逃げた。男は彼女を追って、ようやく手に入れられるところまできた」

 ハンジは隣に座って彼女の指先を追う彼に本の内容を語り始める。黙っている彼は珍しく話を聞いていてくれているようだったので、彼女は話を続ける。

「だけど、どうしても彼を受け入れられなかった彼女はその姿をある木に変えてしまう。そのことに男は嘆いたけれど、姿を変えてしまった彼女と永遠に共にいれるようにとその枝で冠を作っていつも身に付けていたんだって」

「俺には始終その男の独り善がりに思えるが」

「そうだね……だけど、その男はとても強い人で、彼がいれば戦いに負けることなんてないと言われていたんだ。そして何故そうだったのかというのは、彼が彼女を愛してずっとその冠を手放さなかったからなんだってさ」

 リヴァイにはその話があまり腑に落ちていない様子だったが、ハンジはそう続けた。ランプの灯りの元、小さな影を作る一枚を彼女はじっと眺めている。
 その葉と物語の関係性が理解出来ないまま、リヴァイはベッドに横になった。隣でくすりとハンジが笑う。彼女には彼の行動の理由が分かっていた。

「彼女が姿を変えたと言われているのがこの月桂樹で、今ではその木には勝利だとか平和、不滅の象徴だと言われてるんだよ」

 彼の隣にハンジはうつ伏せに寝転んだ。ようやく彼女の意図が分かってきたらしいリヴァイは無表情を装ってその視線から逃れるように顔を背ける。

「物語どうこうではなくて、私はあなたにこれを渡しておきたくって。あなたには必要ないものかもしれないけれど、私はあなたに持っていてほしいと思う」

 ハンジのその声は先程とは違って真剣だった。片方の手を伸ばすと、リヴァイの筋肉質な背中から項、短く刈り上げられた髪を撫でる。
 やめろと邪険に言ったリヴァイだったが、それでも依然として触れ続ける彼女の手を払うことはない。それどころか、振り返ろうとしない。

「ねぇ、私からの『永遠の愛』をあなたは受け取ってくれないのかな」

 その答えは聞かずとも分かっていたハンジだが、赤くなった耳を指先でたどりながら尋ねる。ビクッとリヴァイの体が揺れた。かと思ったら、勢いよくその体が起き上がった。

「いいか。俺はな、お前がどこまで逃げようが地の果てまででも追いかけてやる。汚ぇ手を使ってでもお前をお前のまま捕まえてやる」

 うつ伏せになっていた彼女は肩を掴まれ、くるりと体が反転させられる。それに覆い被さるようにリヴァイは両方の手首をシーツに縫い止める。

「だから、物語どうこうではなくてって言っただろう? 私が、あなたの元から逃げ出そうとするなんて、掃除かお風呂の時だけじゃないか」

 自分を見下ろす視線を受け、ハンジは彼のスイッチを入れてしまったのだと気付く。なんとか宥めようにも、ギラギラしているその目は彼女の主張を聞いてはくれそうにない。
 どんなに力を入れて押し返そうにも、リヴァイの両手はびくともしない。ゆっくりとその顔がハンジに近付いてくる。

「ね、リヴァ……」

「こういう時には口を閉じておけ」

「ん……っ」

 柔らかな感触がハンジの唇を覆う。何度も何度も角度を変えては奪われる呼吸は、次第に乱れていく。
 リヴァイの舌が口内に浸入し、くちゅりと粘膜を掻き回す。ハンジの息が上がる頃に離れていくそれは、名残惜しそうに透明な糸を引いていた。

「ふ……リヴァイ」

 とろんとした表情でハンジはリヴァイを見上げる。いつの間にか解放されていた華奢な両腕がガッシリした首に回される。彼女の顔に影を作る前髪をそっと払い、リヴァイは丸い額にキスをした。
 ひらり、と一枚の葉が宙を舞った。

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