citron

□とある一日の情景
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 雨のにおいがする。空には黒い雲が浮かび、つい昨日まで暖かな春の陽射しに満ちていたというのに、外は仄暗い。こんな日には以前負傷した時の傷が疼く。

「リヴァイ」

 ハンジは綺麗に整頓された部屋で寛ぐ彼に声を掛けた。もう随分の間書類と睨めっこしている彼女の背に視線を感じる。

「その茶葉はこの前王都に行ったときに見つけたんだ。あなたが好きだろうなと思ってね。本を買いに出掛けた途中だったんだけどさ、店の前で小さい男の子が黙って私を見てたんだ。その子が初めて話をした頃のあなたにそっくりな目をしていてね、とても可愛いと思った」

「…………」

 リヴァイは沈黙したままハンジの流れるようにスラスラと紡がれる話を聞いていた。それは話がつまらない、と思っている訳ではないという証拠だ。聞きたくないのであれば彼は話の腰を折り、ハンジの言葉を阻むだろう。

「今こんな時に私が戦線を離脱する訳にはいかないのは分かっているけれどね、やっぱり私も女だったみたいだ。産みの苦しみは出来れば味わいたくないとも思うし、現実的な話ではないとも思ってる。だけど……」

「誰が、そんな事を決めた」

 毎回決まって、ハンジの話す彼女の本心とはストーリー仕立てである。返答を求められている訳ではないと知りながら、リヴァイは口を挟んだ。その本心を必死に偽って生きようとする彼女に余りにも苛立ったからである。

「――あなたの子どもなら、私は産んでもいいと思うよ。だって人類最強とこの調査兵団きっての頭脳を親に持つなんてさ、きっと強くて賢い子に育つだろう」

 そんなリヴァイにほんの一瞬閉口したものの、ハンジはそう続ける。その言葉は、まるで子を成すことに感情は必要ではないというように取れる。

「……荷が重てぇ話だな」

「そうかい? まあ、もちろん過度な期待はしないよ。子どもは無条件に親からの愛情を受けて育つものだからね。だから、あんまり躾だ何だと言って厳しくしすぎないでおくれよ」

 ハンジは手を止め、後ろを振り返った。困ったように眉を下げながら笑っている。
 リヴァイはカップに口を付けた。視線は、彼女に向けたままで。芳香が鼻先を擽る。

「ああ、ねぇ。私はどちらかというとあなたに似ててほしいんだけどさ、そのクセも似ちゃったらどうしようかなあ。同じ顔が同じように紅茶飲んでたら微笑ましいよ。可愛いだろうなあ」

「お前はいい加減そのうるせぇ口を閉じろ。それとも、塞いでやろうか」

「あはは、勘弁してよ。こんな昼間っから何言ってるんだよ。今日のハンジ分隊長はまだまだ仕事が終わりそうにないのにさ」

 真顔で言うリヴァイにハンジは明るい声で笑う。そして再び机に向かい直した。何だつまらないと彼はその背中を眺める。
 女の割には背も高く筋肉量も多い彼女だが、触れてみればやはり男のそれとは違っている。全てが柔らかく甘く、まるで罠のようにリヴァイの体を魅了するのだ。もっとも、それは彼女という奇行種に惚れてしまったせいでもあるのだが。

「さっさと終わらせろ、夕飯までにだ。俺の今日の仕事はお前の食事と風呂の監視だ。それが終わったらお前の望み通り抱いてやってもいい」

「何でそう上から目線なのかなあ。まあ、別に今更気にしないけどさ。あーあ、むかつくなあ。そんな俺様野郎が若くて可愛い女の子達にキャーキャー言われてるなんて」

「ああ? もういっぺん言ってみろ」

「んー? だからさあ、リヴァイみたいな俺様野郎が女の子達にモテる意味が解せない、って。ああもう、邪魔しないでおくれよ。また間違えたじゃないか」

「俺のせいにするな。大体、お前が書類を山になるまで放っておいたからだろうが」

 無駄口を叩きながらも書類の山を片付けていくその背中に劣情を抱きそうになり、リヴァイは視線を窓へと向けた。
 そこは数時間前に彼が部屋を念入りに掃除したのもあって塵一つ残っていないだろう。曇りのない窓の外は相変わらず薄暗く、雨が硝子を叩いている。

「うん、でもさあペトラなんか本当に出来た子だよね。あなたと私がこんな関係なの知ったら、普通は嫉妬なり何なりするじゃないか。それなのにあの子はさ、私のこと庇ってくれたりもするし」

「……何故そこでペトラの話になる」

「いや、だからあの子はあなたが好きなんだろうなって。もちろん、あなたの事を尊敬してくれているのもあると思うよ。だからなのかな、私に優しい」

「……俺はてっきりアイツはオルオの奴を気に入っているとばかり思っていたが」

「ああ、うん。それもあるよ。あなたに向けられているのは尊敬と憧れだ。だけどね、あの年頃だとそれが好意だと思い込んでしまう節があるだろう? 可愛いよね、本当に」

 ハンジはいつの間にか最後の一枚となった書類に目を通して最後の欄に署名する。ふう、と息を吐くと机に倒れ込んだ。リヴァイが言っていた夕飯までにはまだ時間がある。

「まあ、うちのニファだって可愛いけどね。私のことキラキラした目で見るんだよ。最初はまた男だって勘違いされてるのかなって思ったけど。モブリットやケイジも可愛いよね、私が生き急ぎだとかいってオロオロするし。あと、あのゴーグルは私の真似してるんだってさ、本当に――」

 机に突っ伏したまま話続けるハンジの言葉が途切れる。温かな感触に包み込まれ、少しだけ顔を上げた。

「俺や俺の子と、アイツらを同列に話すな」

 軽く触れてくる唇に彼女は笑みを零す。そっと組んでいた腕を解き、その整えられた黒髪に触れた。

「何それ、兵長殿は部下に嫉妬したのかな?」

 ハンジの言葉に舌打ちが返ってくる。ハンジは首を傾け、不機嫌そうなその唇に自らのそれを重ねた。ゴツゴツした体付きをしているくせに、そこはとても柔らかい。

「……紅茶のにおいがする。少しいいのを買ったのもあって、いい薫りだね」

 彼の機嫌を取るのはとても容易い。その証拠に、じっとハンジを見ているその眉間に深く刻まれていたシワが弛んだ。
 ねえ、と同意を求めると、ああと照れ臭そうな返事が返ってくる。

「そうだなあ、今日のハンジ分隊長の仕事はあともう少しだけあった気もするんだけど」

「……何だ」

「うん、あなたに洗ってもらって、抱いてもらってから夕飯……かな」

 リヴァイの薄い唇が僅かに弧を描く。しとしと、と降り続く雨音のせいで、まるでこの世界に二人だけしか存在しないかのように錯覚してしまう。

「それも……悪くない」

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