citron
□それに関しては即答できます。好きです、愛しています。
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「おや、あなたもまた来たの?」
ハンジは柔らかく微笑みながら問う。月夜に銀のように鈍い灰色が二つ、彼女を見上げた。
「今日は、本当にいい天気だった。あなたもそう思う? そうだね、洗濯物だってよく乾いていたよ」
暗い濃紺をした空には、小さな光が散りばめられている。一つ、二つ。数えようにもキリがない。
本当はこんな日には、一人で居たいのだけれど。隣に寄り添ってくるその灰色の瞳にハンジは話し掛けた。
「巨人って、一体何なんだろうね」
その問いかけに答えはない。聞こえているのだろうか。聞こえていたにしても、返事が返ってくることはないだろう。
「あなたは、私が好きなのかな?」
ハンジは小さなその頭を撫でる。擽ったそうに、にゃあと鳴くその前足が耳を掻いた。
ふわふわした毛並みに指が滑る。確か、猫は綺麗好きだったかと思い出してハンジは笑う。
「あなたはあの人にそっくりだね。こうして私の隣に来て慰めてくれたり、たくさん話を聞いてくれたり……かと思えばどこかへ行ってしまう」
か弱そうな顎の下を指で擽ると、ゴロゴロと喉を鳴らす。瞳が細められ、甘えるように額をハンジに擦り寄せてくる。
「だけど、あの人もあなたみたいだったらいいのに。そうは思わないか、あなた位に素直で分かりやすかったらこんなに苦労はしていないよ」
ふと止まったハンジの手を猫はザラザラした舌でペロリと舐める。今夜はやけに甘えん坊だな、なんて笑いながらハンジは思いに耽った。
***
「……と、いう事だ。つまり、巨人には――」
それは全て分かりきった事だ。今更改めて聞くような話でもないと隣で船を漕ぎ始めている同僚の脇腹をつつく。小さくガタッと物音を立てて目覚めたらしい彼女は、悪気のない笑顔を向けた。
「――で、あるからして……ハンジ、何か?」
「はい。私は……新しい仮説に行き当たりました」
同僚の居眠りに気付いていなかったらしい上官は彼女に話を振る。そして返ってきた言葉にまたかとあからさまに嫌な顔をした。
きっと誰もが巨人という得体の知れないものに恐怖と憎しみを抱いている。そういった感情の余りにその存在に興味を持ち執着するのは、異端だと嘲われる。
彼女にとって、人類とは果たして敵なのか味方なのか分からない。そんな相手に心臓を捧げるなんてと思った事も過去にはある。
「その話なら後で聞こう。もっとも、俺の部屋に一人で来れるのならな」
上官の言葉に周りがざわめきたつ。その光景に隣の同僚が立ち上がろうとするのを彼女は引き留めた。今では数名のよき理解者がいる。それだけで彼女は救われていた。
自分がもし、男であったのならこの話は受け入れられていただろうか。やはり同じように異端だと切り捨てられるのだろうか。ギリッと奥歯が鳴る。
「ハンジ」
「ん……ああ、もう終わったのか。確かに、あの上官の話はとてもつまらなかったね」
「あんなの、気にすることないよ」
「別に気にしてないよ」
穏やかな同僚の瞳は、彼女の心を見透かしているようで余り心地よくはない。ハンジは誤魔化すように笑ってみせた。
「ところで、彼は……リヴァイはどこに行ったんだろうね? クソつまらねぇ話だとか言って途中で抜けちゃったのかな」
「ああ、アイツなら元から来てないよ。どこに居るのかは私も知らないし。ねぇ、ミケ?」
「俺も知らないな」
「そう、ならよかった」
何がよかったのだろうか、と自分が発した言葉に疑問を抱く。話が長くてつまらないと言い出して、それによって騒ぎが起きなかったからだろうか。それともあの時の上官とのやり取りを聞かれていなかったからなのだろうか。ハンジは溜め息を吐く。
「それにしてもあんた、アイツのどこがいいの。目付きも口も悪い、あんな……」
「うん、だけどねナナバ。彼は優しい人なんだ」
「優しい……かな、私には理解できないんだけど」
同僚であり親友でもあるナナバはうーんと唸りながら額に手を当てた。その姿が面白くなり、ハンジはくすりと笑みを零す。
確かにナナバの言う通り、彼は目付きも口も悪い。そんな彼に怯えている者も少なくはないだろう。
「ああ、もうこんな時間か。もう行かなきゃ。ナナバとミケは先に食堂にでも行っててよ」
「あんたは?」
「私は、あの子の餌が先だ。それから時間があって気が向いたら行く」
「ちゃんと食事は摂れ」
「あはは。ミケ、リヴァイみたいな事を言うんだね。分かったよ、それじゃあまた後で」
ひらひらと手を振り、ハンジはその場を後にする。向かうのは、兵舎の隅に住み着いた野良猫の元だ。今頃きっとお腹を空かせて鳴いているかもしれない。
「あっれー? どこ行っちゃったのかなあ。ねぇねぇ、ご飯だよー。おーい」
いつもならハンジと食事の気配を感じてすぐに駆けてくる猫が今日は珍しく姿を見せない。キョロキョロと辺りを見渡しても、あのふわふわした黒い毛並みは見付からなかった。
「もう、せっかく人がご飯持ってきてあげたのになあ。まあ、あの子にもあの子の生活があるし、仕方ないのかなあ」
ブツブツ呟きながらハンジは兵舎の角を曲がる。この辺りでは一番陽当たりのいい場所だった。
もしかしたらこの辺りで日向ぼっこでもしながら昼寝をしているのかもしれない。彼女は再び辺りを見渡す。
「……あ、」
思わず大きな声が漏れ、慌てて手で口を塞いだ。彼女の視線の先には大きな木がその存在を主張している。
その陰に丸くなっている猫の姿を見付けたのだ。
「こんなところで眠っていたら風邪ひいちゃうよ。疲れてるのかな? ねぇ、起きてよ」
彼女はくすりと笑みを零した。木陰にしゃがみこみ、その寝顔を覗き込む。
「ご飯食べないの? ねぇ、もうお昼だよ。今日もすごくいい天気だから、洗濯物日和だよ」
そっとハンジはその体に触れた。それに応じるようにゆっくりと灰色の瞳が開く。眠たそうに瞬きをしながら、覗き込んでくる彼女の顔を見ている。
「リヴァイ、探したんだよ。まさかこんなところで居眠りしてるなんてね。まあ、上官の話はいつも通り退屈だったから正解なのかもしれないけど」
ハンジはそう話をしながら微笑んだ。いつも鋭い目付きをしている彼は寝惚けているのか、黙ってこちらを見ている。
「その子、可愛いだろう? とても私になついてるんだよ」
彼の傍らには本来彼女が探していた猫の姿がある。時折ぴくぴくと耳を動かしてはいるが、まだ眠っているようだった。
「……ああ」
少しだけ掠れた声が彼女の問い掛けに返事をした。そして、がっしりとした腕が伸ばされる。
「リヴァイ……?」
どうしたの、と視線で問う彼女の頭をその手が捕らえる。そしてぐっと引き寄せたかと思うと、唇が重なる。
乾いたそれを潤すかのように、何度も何度も口付けを繰り返した。
「ん……ねぇ、どうしたんだい? 何か嫌なことでもあった?」
ようやく唇が離れ、ハンジは尋ねる。リヴァイの左手がその柔らかな頬を撫でた。
「それは俺の質問だ」
「どうして?」
「クソでも我慢してるみてぇな顔をしている。……お前らしくない。今すぐ笑え」
チッと舌打ちをしたリヴァイは視線を逸らした。ハンジは眉を下げる。
いつも通りを装っていても、彼には分かっているのだ。
「別に、今日も快便だよ。問題ない」
「では何故お前はそんな顔をしている」
「あなたが私を甘やかすからだ。溜まった服だっていつも洗濯して綺麗に干してくれるしさ」
崩れ落ちるようにハンジは彼の胸に顔を埋めた。清潔なシャツは太陽のにおいと彼のにおいがする。
こんな場所では誰かに見られてしまうかもしれない。そう思いはしたけれど、温かな体温から離れたくないとハンジは思った。
「お前はそういうことをもっと気にしろ。風呂にもちゃんと毎日入れ」
「それはそうだけど、さ」
ぎゅっとその腕の中に閉じ込められるが、苦しくはない。ハンジの目からぽろりと涙が一つ零れた。
「何故、泣く」
「別に、何にもないよ」
「……お前は俺が嫌いか」
「ううん、あなたが好きだよ。リヴァイ」
「なら、泣くな。鬱陶しい」
言葉とは反対にリヴァイの手は優しくハンジの髪を撫でる。うん、と頷きはするものの、彼女は彼の胸に顔を埋めたままだった。
「……私が、男だったらこんな思いをしなくてよかったのかな」
「お前が男だったら、俺は野郎を慰めるただの変態じゃねぇか」
「そういう意味じゃないよ、リヴァイのバカ」
「バカはお前だ、クソメガネ」
「だから今日も快便だったって言ってるだろう?」
「そういう意味じゃねぇ、このバカが」
暖かな陽光が木の葉に反射し、木陰が揺れる。隣でいつの間にか目を覚ましていたらしい猫がにゃあと鳴いた。
「ん……ああ、ご飯だよね。ごめんごめん」
ねだるようにちょんと猫の手がハンジの膝を突く。急に気恥ずかしくなった彼女は彼の腕の中を擦り抜け、傍らに置いたままだった猫の餌を手にする。
「ねぇ、あなたは私が好きなのかな?」
丸い猫の頭を撫でながらハンジは言った。その言葉は猫に向けられているのだろうか、それとも彼に向けられているのだろうか。
リヴァイは瞳を細めてその姿を見ている。
「ああ……お前が甘えてくるのも、服を洗濯してやるのも悪くはない」
リヴァイのその珍しい言葉にハンジは彼を振り返り、ふと微笑んだ。