citron

□私が、息をし続けるということ。
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もうすっかり暖かな季節が訪れたというのに、彼女の指先はすっかり夜風に冷えてしまっていた。
 空は暗く、どこまでも果てのないようにも思える。太陽に支配されている時とは違った顔をして、それはハンジを見下ろしていた。

「また、今回も……たくさん人が死んだよ」

 昔聞いたおとぎ話の中で、人はその人生を終えた時に夜空へ輝く星になると言われていた。あの頃よりもずっと背は高くなり、大人になった彼女でさえ届く事がない場所だ。
 誰かの死を嘆き悲しんでみても、その誰かは戻っては来てくれない。ただ、思い出の中ではそのままの笑顔で居てくれるだけだった。
 彼女がまだ幼い頃、両親と三人で並んで写った写真がある。そこにはまだあどけなさの残った笑顔の自分と、それを優しい顔で見守るような両親との姿があった。
 わざわざ死にに行く必要はないと彼女を止めた両親は、もうこの世には存在していない。今自分がこうしていることが正しかったのだろうかと問い掛けても答えが返ってくることもない。
 ハンジの華奢な指がすっかり古くなった写真を撫でる。両親を亡くしたのは、巨人のせいだと何度も自分に言い聞かせてきた。
 しかし、巨人という人類を脅かすものが存在していてもいなくても、人は争うことを止めないのではないかと思うこともあった。人間とは本来、自らを守るために戦う生き物なのである。
 それは彼女にも言える事だった。巨人から人類を守るために戦う事とはつまり、敵対する組織と戦う事でもある。
 守るべきはずの人類と戦う事はとても心苦しい。そして、呼吸をするように自らの欲を肯定し、数多くの犠牲の上にのうのうと生きている彼らに嫌悪した。
 それでも、こんな時にこそ人々は何かしらの偶像へと己の願いを託している。まるでその期待を裏切る事が罪であるかのように、その背に全てを求めている。
 彼女には彼らを否定する事は出来なかった。彼女もまた、彼の背に希望とある感情を抱いていたのである。

「またここに居たのか、メガネ」

 コツコツと静かな暗闇に響く足音の主は溜め息交じりに言った。もうこの場所に訪れるのは彼女を除いて二人だけしか居ない。
 もう一人は今頃、先立って負った傷のため安静を要されている。それに、わざわざこんな日に彼女を追ってまで兵舎の隅までやって来るのは他にはない、彼だけだ。

「やあ、リヴァイ。奇遇だね、あなたがここへ来るなんて」

 口先ではそう返しながらも彼女は彼がここへ来る事を期待していた。心の内に秘めている小さな希望的観測が、そうさせるのである。

「今夜はとても星がキレイだよ」

 じっと彼女を捉えているであろう視線から逃れるようにハンジは空を見上げた。あの話が事実であるのなら、今日までに失ってきた仲間の姿もそこにあるはずだろう。
 すっかり遠くなってしまった友人達は、穏やかな表情をしてくれているだろうか。そうであれるように、彼女はまだ息をし続けていなければならない。
 彼は黙って彼女の隣に腰を落ち着ける。いつもは鋭いその双眸が彼女の横顔から逸らされ、暗闇を見つめる。

「……ミケとナナバはあそこにいるのかな」

 愁いを帯びた言葉がハンジの唇から零れた。もう子どもではない彼女には、それがおとぎ話の中だけだと分かっている。
 だが、そうであればいいのにという気持ちから出てきた言葉だった。

「昔聞いた話の中に、そんな物語があったんだ。死んだ者の命は星になって、生きている者を見守り続けてくれてる。そして誰かに時々は思い出してもらえるようにって、ああして輝いてるんだってね」

「……随分と都合のいい話だな」

「そうかい? だとしたらとても素敵だと思うんだけど」

 彼の現実的な言葉にハンジは苦笑を漏らす。夢がないなあ、なんて呟きながら彼女は彼の肩に寄り添った。
 少し低い位置にある肩は彼女を拒む素振りを見せない。それは彼の本来持っている優しさからなのだろうか。

「私がもし、星になったらあなたも時々は思い出してくれないか」

「……断る」

「どうして? そんなに私が嫌いかな?」

「お前みたいなうるせぇ奴のことを忘れる方が難しいだろうが」

 リヴァイからの予想もしていなかった返事に彼女は言葉に詰まる。いつもならこんな時には、思い出すのも忌々しいというような事を言ってのけるはずなのに。
 たったその一言でハンジの心は揺れる。この気持ちの正体を口にする事が出来るのであれば苦労はしないだろう。

「私だって、たまにはこの煩い口を閉じている時だってあるよ。子どもの頃に両親によく言われてたんだ。女の子なんだから家の外では物静かでお淑やかでいなさいって」

 ふ、とハンジは遠い記憶に思いを馳せる。お転婆だった自分はよく近所の子ども達と喧嘩をして、傷だらけになって家に帰っては両親に叱られていた。
 今ではそれすらとても懐かしい思い出だった。

「お前はその言い付けを今でさえ守ることが出来ていないのか」

「そうかな……少なくともあなたの前ではそうなのかもしれないね」

 暗闇の中でリヴァイが笑った気配がしてハンジはそう返す。寄り添った肩は規則的な息をしていて、とても温かい。

「あなたの腕の中は、私にとってはここの次くらいに安心できる場所だよ、リヴァイ。あなたの背中は、私にとっては自由だ。誰にもあなたを縛り付けることなんて、できない」

 それは、たとえ彼女であっても。出来るのであればそうであってほしいと思っていた。
 彼が彼以外の誰のものにもならないのであればそれでいいと思っていた。

「またその下らねぇ話か。俺が誰のものだろうとお前には関係がないと言っただろうが」

「うん……それもそうだったね。すまない」

 本当は彼が誰かのものになるのが怖かった。誰かを愛しいと思い、その腕の中に抱き締める日が来るのが怖いと彼女は思っていた。
 許されるはずのないその独占欲が時に堰を切ったように心の内側へと流れ込み、彼女を苦しめる。

「お前は、自分で思っているよりずっと柔らかい。それに――」

「それに?」

「いや、いい」

「何だよ、言葉なんて減るものでもないのに」

 もしも彼が彼女と同じ気持ちで居てくれるのであれば。ただ単にお互いを慰め合うだけに手を繋ぎ、隣で眠るだけでなければいいのに。そう願わない事はなかった。

「お前が誰のものになろうが俺には関係ないからな。それはお前が決めることだ。つまりは言う必要がねぇ」

 その言葉にいつだって絆されては手に入れたくなるのに、彼は彼女の腕からすり抜けていってしまう。自由の翼を負ったその背中は知らぬ間に遠くへ行ってしまう。
 たとえその首筋に歯を、背に爪を立てたとしても。

「……だけど、私だってあなたが死んでしまっても思い出したりしないと思うよ。あなたを忘れることなんて私にはできないんだ、あなたと同じでね」

 その灰色の瞳も、逞しい両腕も、悪態を吐く薄い唇も。全てがハンジの心を捉えて離してくれそうになかった。
 そう伝える事が出来たのなら、少しは楽になれるのだろうか。

「俺はお前ほど話好きでもないが」

「元々、結構喋るくせに」

「そこだけはお前に譲ってやる」

 ひんやりと冷えたハンジの手に温もりが触れる。筋肉量の多い彼は彼女より幾分体温が高い。
 その言葉では何と言っていようが、彼の大きなてのひらはいつも優しかった。

「じゃあ、たまにはこうして手を繋いでよ。例えば私が先に死んでしまっても、あなたを忘れられないように」

 ハンジは冷えた自分の手を包み込むようなその手をぎゅっと握り返す。その体温を記憶に刻み込むように。
 夜空に輝いている星の一つがその濃紺を横切っていく。彼女は瞳を閉じて、彼に気付かれたりしないようにと三度心に秘めた願いを唱えた。

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