citron

□カーネーション
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 パラパラと分厚い本を捲りながら、ハンジはふと笑みを浮かべた。傍らで眠るそのいつもは険しい顔をしている彼の寝顔は、それくらいにとても穏やかだった。深く刻まれているはずの眉間の皺すら見当たらない。
 さらりと癖のない髪に触れると小さく身動ぎするリヴァイは、この夜が明ける頃にはまた人類最強の男に戻るのである。他の誰もが知り得ないだろうその表情にハンジは優越感を抱いた。このまま朝が来なければ、こんな彼を独り占め出来るのだろうか。
 丸い額から意外に柔らかく滑らかな頬、そして薄い唇に軽く触れれば、抵抗するかのようにリヴァイはそっぽを向く。初めて言葉を交わした日には、こうなるとはまさかどちらも思いもしていなかったというのに。

「リヴァイ、ありがとう」

 ハンジは本を閉じ、その傍らに外した眼鏡を置く。正直なところは続きが気になっていた。しかしもう続きを読む気にはなれない。
 コツンとリヴァイの背に額を当てた彼女はその体にそっと腕を回す。小さな傷跡と温もりが、彼の生を証明している。

「……何が、だ」

 寝惚けているような掠れた声が言った。くすりとハンジは笑う。
 厚い胸板へ回された華奢な手が捕らえられる。見た目以上に男らしい体と柔らかな肌が密に触れた。
 つい数時間ほど前まではこの体に抱かれていたという事実にハンジの顔が火照る。荒々しいようでとても優しい口付けをするリヴァイは何度もその名を呼んでいた。その度に彼女の体が震えるのを知っているのだろうか。

「起こしちゃった? ごめんね、何でもないよ」

 素肌のままのその背に軽く唇で触れ、ハンジは答える。互いの指が絡み、まるで鼓動が聞こえそうだった。

「お前もそろそろ寝ろ。明日はガキ共の訓練と掃除だ、居眠りでもされたら困るからな」

 それは突き放すかのような口調ではあったが、絡まった手は離れていきそうにない。笑うハンジに何だと不機嫌を装った声が尋ねる。

「――つまり、あなたが言いたいのはこうだ。怪我をしないように気を付けろ、だろう?」

 ハンジは灯していたランプの明かりを消した。途端に暗くなる部屋にはカーテンの隙間から差し込んでくるぼんやりとした月明かりしか存在しなくなる。

「……ああ。分かったら早く寝ろ」

 そっけないリヴァイは嘘つきだ。ハンジは心の中でそう呟きながらそっと瞳を閉じた。
 心地よい体温が眠気を誘う。こんな風に穏やかな夜を過ごせるのは、彼が居るからなのだろう。
 ハンジの目が覚める頃にはきっと、リヴァイが再びその眉間に皺を刻んで険しい表情をしている。もしくは、掃除の時間だと叩き起こされるかもしれない。
 いずれにせよ、また夜が訪れるまで彼は人類最強の男でなければいけない事を彼女は知っていた。
 



***



「あれ、ハンジさん。珍しいですね、ちゃんと食事をしてるなんて」

 午前中の訓練を終え、ぞろぞろと部屋に戻って来た若い新兵の一人がハンジに声を掛けた。
 いくら実験や事務仕事などが立て込んでいて部屋から出る事がままならない日であっても、出来た部下達が食事を運んできてくれるお陰もあって絶食するような事はほとんどない。そんな事情を知らない新兵達から毎年同じような事を言われ続けている。

「ああ、うん。今日はモブリットに部屋を追い出されてしまって……あと、ちゃんと食事しないと誰かさんに怒られてしまうんだ。それはそれは怖い顔でね」

 こうして彼らと食事の時間に顔を合わす事が少ないのだから、そう思うのも仕方ないだろうとハンジは否定も肯定もしない。性別を問われた時でさえ、同じように交わしていた。

「それって、兵長のことですか?」

「さあ、どうだろうね。午後になれば君にも分かるかもしれないね」

 簡素な食事で胃を満たしたハンジは少年に笑い掛ける。そして、ぼうっとした表情で彼女を見ている少年に彼女は首を傾げた。

「大丈夫? 体調でも悪いのかい?」

 ハンジからの問い掛けに少年ははっとした顔をして、左右に首を振る。しかしその頬は僅かに赤く色付き、彼女の首から胸にかけてを見ていた視線が逸らされる。

「あ……っ、あの、ハンジさん! えっと……あの、もう少しだけシャツのボタンを……」

 しどろもどろに言う少年にハンジはやっと合点がいく。そういえば昨晩リヴァイと体を重ねた事を思い出した。
 きっと情事の跡でも見付けたのだろう。こういう事においては、直属の部下達は見て見ないふりをして一切注意する事もない。うら若い新兵にごめんねと一言告げたハンジは開けていたシャツのボタンをきっちり一番上まで閉じる。

「さて、食事の時間が終わったら次は私が君達に稽古をつけなきゃいけないみたいだし、少しだけ予習でもしてくるよ」

 席を立つハンジは、ぽんと軽く少年の肩を叩く。少年は去っていくハンジの後ろ姿を眺めていたが、彼女はそれを気に留めることなく兵舎の外へと続く廊下へ足を進めた。

「やあ、リヴァイ。あなたは今から食事?」

 逆方向から歩いてくるリヴァイに気付いた彼女は声を掛ける。それはまるで二人の間には何もないとでもいうように、当たり障りのない言葉だった。

「片付けでもしてた? 次は私の番だから、特に気にしなくってよかったのに」

 二人の距離が近くなり、どちらともなく足を止める。低い位置にある険しい顔にハンジは微笑んだ。

「ああ、そんなところだ。お前は今から出るのか」

「うん。まだ少し時間があるから部屋で読書でもしようかと思ってたんだけどさ、最近体が鈍ってる気もするし、軽く予習でもしておこうかと思ってね」

 ハンジの言葉にリヴァイは眉を寄せる。その視線の先には、皺を作った彼女のシャツがある。身嗜みに対して厳しい彼の事だ、それが気に入らないのだろう。

「その前にお前は着替えをしろ。そのシャツは昨日も見た。上官がそれではガキ共に示しがつかないだろうが」

 ハンジの予想通りの言葉をリヴァイは口にする。その一言一句が彼女の思っていたのと違わず、思わず笑みが零れる。

「それもそうだね。どうせ汚れるからなんて言ってもあなたは納得しないだろうし、まだ時間はある……一度部屋に戻ることにするよ」

 素直に返事をしたハンジは、再び歩き出した。真っ直ぐに進めば外へ出られるのだが、途中で右に曲がって自室へと向かう。遠回りになってしまうが、たまにはリヴァイの言う事を聞いてやるのもいいと思った。

「あーあ。どうせこの頃は天気がいいから着替えもたくさんあるんだろうなあ」

 もちろんそれはいつの間にかリヴァイが洗濯して綺麗に畳んでくれた物である。彼女への文句を呟きながら洗濯物を畳むその姿が容易く目に浮かんだ。

「それにしてもリヴァイってば本当に目敏いよなあ……」

 笑み交じりに呟き、ハンジは自室の扉を開ける。先程とはうって変わってさっぱりとした部屋が眩しく見えた。
 丁寧にも換気までしてくれたのだろう、からりとした空気はどこか太陽のにおいがする。
 ふと、ハンジは心なしか整頓された机の上に目を遣る。

「――ああ、もう……ほんとに、あなたって人は」

 今はそこに居ないリヴァイの姿を思い浮かべ、ハンジは微笑んだ。差し込んでくる暖かな陽光に照らされた窓辺に一輪の白い花が咲いていた。

「どうしてこんなことしてくれるかなあ……もう、困るじゃないか」

 ハンジはそっと花に触れる。陽を受けて白さの際立つその花は、以前にも目にした事があった。

「リヴァイは、私にまたあの面倒な作業をさせるつもりなのかな?」

 そっと花に話し掛けるように、ハンジはそう口にした。
 以前リヴァイから同じようにして贈られたそれは、美しいままで押し花にして栞に使っている。丁度、昨晩その花を目にして思い出に耽っていたところだった。

「私の愛は生きています、か。そうだね、私は幸せ者だ」

 ハンジの華奢な手には白いカーネーションが花を綻ばしている。その柔らかな花弁にそっと口付けると、甘い薫りが鼻腔を擽った。

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