citron

□ブラックアウト
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 自分には失う物なんて何もない、だからいつその時が訪れようと悔いはないともう何年思い続けていただろうか。
 疲れた身体を癒してくれる清潔な部屋も、暖かみのある陽のにおいがする洗濯物も、そこに存在するべき存在がなければ意味がないと思っていた。 テーブルに食欲を誘う夕食が並んでいる事もなければ、それを囲んで談笑するような家族と呼べる相手は一人もこの世には存在していない。
 寂しい、のとは少しだけ違っている。虚しい、その言葉がしっくりくるのだ。胸の奥底にはいつも暗い穴が口を開いて待っている。孤独なのではないと虚勢を張ってみても、せせら笑うかのようにいつもそこにそれは存在していた。

「ねえ、リヴァイは……巨人がいなくなったら何をする?」

 夢中になって読み耽っていた分厚い小説も七割を過ぎた頃、ハンジは顔を上げた。レンズ越しに見える琥珀色の瞳は大抵、その興味を巨人へと注いでいる。その真髄には憎しみがあるのだと聞かされた事がリヴァイにはあったが、それももう随分と前の話である。
 とうに飲み頃を過ぎていた紅茶を煽り、リヴァイはその視線から逃れるように窓の外を見る。地平線に吸い込まれていく丸い橙色の上には濃紺が顔を覗かせている。
 その問い掛けは何度か、以前にも投げ掛けられた物だった。そしてその度にリヴァイはさあなと言って答えをはぐらかし続けている。実際には答えになるような言葉が思い浮かばなかっただけなのであるが、素直にそう返事をして納得してくれるような相手ではない。
 いつの間にか何をする訳でもなく自由に部屋を訪れるようになったハンジの興味が少しでも自分に向けられているようで、どこか心地よかった。それがいつまで続くのかはリヴァイにもハンジにも未だ分からないままだ。

「壁の外には出るよね、もちろん」

 まるで誘導尋問のようにハンジは言う。そこには自らの願望も含まれていた。今まで何度も壁外へ調査に出向いて来たのではあるが、ゆっくり外の空気を吸ってその世界を目に写している余裕などない。ただ、巨人という存在を葬る事だけが目的だった。

「まずは、そこに何があるのかっていう話になるんだけど。虫や動物もいるのかなあ。変わった植物とか地形とか、考えるだけで滾ってくるんだけど!」

 いつの間にか話題にズレが生じ始めている事にハンジは気付いていない。もしくは、気付いているが答えようとしないリヴァイの代わりに、自らの答えを先に述べているのだろうか。根っからの研究者気質だ、と苦い顔をしながらもリヴァイは話を聞く態勢を取る。
 正直に言えば、リヴァイには壁外に存在している生物や風景など少しも興味がなかった。しかしこうも嬉々として語られてしまえば、その仮説や願望に耳を傾けるしか出来ない。それは、内容が巨人に関する物であっても変わりはないのである。

「お前な……いや、まあいい。続けろ」

 途中でリヴァイが冷静な思考をもって口を挟んでみても、まるで無駄なのである。ハンジが一度こうして興奮気味に語り始めれば、意見を求めてくるまで聞く耳を持たないのはもう既に心得ている。陽が沈みきってしまうまでにその話が終わればいい方だ、とリヴァイは溜め息を零した。

「ん? もっと聞きたい? 仕方ないなあ。じゃあ、遠慮なく……」

 むしろ、少しくらいは遠慮という言葉を覚えてほしいところではある。ハンジの話をかいつまんで聞きながらリヴァイは窓の外に広がる空を見ていた。時折、相槌を打つのは忘れなかったが。
 こうして誰かに求められる事が唯一の存在意義のようだ。気が付けば人類最強などと謳われ、その背に抱える物は日に日に嵩を増していく。誰かに認められたくて誰かの荷を負うのではない。しかし、その荷がなければ一体自分には何が残されるのだろうかと考える事はある。
 ふと、ハンジの長ったらしい話が止まる。その視線は真っ直ぐにリヴァイに向けられていた。考え事をしていたせいで相槌を打つタイミングを誤ったのだろうか。苦し紛れに何だと尋ねてみても、ハンジは黙りこくっている。

「虫の話はどうした」

「……もう、終わったよ。そんなの」

「なら、超大型巨人よりデカイ山の話は……」

「そんな話、してないよ」

 ハンジは笑っている。が、その表情はどこか寂しげに見える。真面目に話を聞いてやらなかったからだろうかとリヴァイは思いかけたが、聞いていようがいまいが気の済むまで話し続けるのがハンジである。ならば一体、どうしたのだというのだろうか。無理をしているかのように弧を描くハンジの唇が、言った。

「やっぱり、壁外に行くのはやめるよ」

「……何故そうなる?」

 もう続きを読む気が起こらないのだろうか、ハンジは本を閉じて眼鏡を外す。重厚な黒の表紙の上に折り畳まれた銀の細いフレームが映える。
 リヴァイの問い掛けにハンジは勿体ぶるかのようにうーんと悩む素振りをしてみせる。珍しく先に風呂で洗ってきたのだろうか、しかし、いつも通りに雑に結い上げた髪がさらりと揺れる。

「聞きたい?」

「……ああ」

「あなたが寂しそうな顔をしてるから、かな?」

 腰を上げたハンジはリヴァイの隣に寄り添うかのように落ち着いた。ふわりと清潔な香りがする。天気がいいというのを理由に今朝方、洗濯したシャツには皺一つさえない。その視線に気付いたのだろうハンジはふふっと笑みを浮かべた。滅多に目にする機会のない素顔はいつもよりどこか子どもっぽく映る。

「あなたは壁外になんて行きたくないって顔をしてたよ」

 肩にもたれ掛かるハンジの重みと温もりが心地よい。意地悪な口調を装ってはいるが、どこか嬉しそうに。ゆっくりとその目蓋が落ちていくのは何かを考えているからなのだろうか。それが何であるかまでは流石のリヴァイにも見当はつかなかったが。

「ねえ、ちゃんと貯金はしておいてよ。私もしておくからさ」

「どういう意味だ?」

「全部終わったら、大きな家を買おう。広い庭付きの、ね。そしたらあなたも毎日掃除に飽きる事もないだろうし……ああ、後は大きな本棚も欲しいな」

 リヴァイの質問にハンジは穏やかな口調で答える。まるで夢を語るようなその言葉は、リヴァイの心の奥を覗き見ているようだった。そんな何でもない物をハンジが求めているというのが意外で、リヴァイはただその言葉の続きを待っていた。

「もちろん、あなたが私の傍にいてくれるというのが前提なんだけど、さ」

 はにかんだように告げるその瞳はいつの間にかリヴァイを捉えていた。どうしてハンジはいつも恥ずかしげもなくこんな事を言えてしまうのだろうか。リヴァイはくしゃりとその髪を掴む。指の隙間から零れていくそれは、求めて止まなかった何かに似ている。それをリヴァイが求めてもいいのだと許されたような気がした。

「寝言は寝て言え」

「酷いなあ、本気だよ」

 ハンジはからりと笑った。いつもこうだった。核心には触れる事はしないくせに、いつもリヴァイが求めている言葉を口にする。その言葉を、存在を全て求めていてもいいのだとその瞳が語る。信じてしまっても良いものだろうかと逡巡するその手を取り、屈託なく笑う。

「私の生きている意味は、あなただ。リヴァイ」

 どうしてこうも、その言葉は胸を揺さぶるのだろうか。仄暗い底に沈んだ澱を掬っては、光のある方へと手を引いていこうとする。その手は華奢なくせに強く、揺るぎがない。守ってやりたいと思うのに、いつの間にか逆に守られている。そんな事にリヴァイが気付いたのはいつだっただろうか。
 細い指がリヴァイの頬を撫でる。そんな風に触れてくるのは今まで誰もいなかった。ただの一人の人間として、誰かの傍でただ息をしていたかった。その望みが自らの望みだと言うのである、ただ一人ハンジだけは。

「だから、次の壁外調査でも生き残ろう。あなたがもしも泣いたりなんてしたら、みんな夢見が悪いだろうから」

「泣く訳あるか、この俺が」

「鬼の目にも涙って言うじゃないか」

 ただ寄り添い、下らない会話を交わす。時には誰かの死に咽び泣くその背を抱く。信頼、なんていう複雑な感情ではない。もっと本能的な何かに付ける名を、ずっと探していた。それが今は隣で息をしている事に安堵する。
 リヴァイの視界に影が射す。少しだけ癖のある髪が頬をくすぐる。薄く柔らかな皮膚が重なり、ほんの数秒で離れていく。

「リヴァイ、あなたが、好きだ」

 望んでいた言葉がハンジの唇から零れ落ちる。その頭を引き寄せ、弧を描いているそこへとリヴァイは口付けた。

「だから私は壁外には行かないよ」

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