青春プレイボール!

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猪狩くんは、私の前にやってきた。やっぱり、どこか怒ったような雰囲気を纏って。私の顔はただでさえ暗い色で彩られているというのに、さらに暗くなってしまう。

彼は私の目を力強く見つめた。そこには投手としての、パワフル高校のエースとしての彼を彷彿とさせるぎらつきがあって、身構えを整えざるを得ないの。きっと、彼の前に立ったバッターはこんな気持ちなのかもしれない。勝負をするわけではないけれど、真剣に向き合わなきゃ猪狩くんの瞳に失礼な気がして、私は暗い瞳のまま静かに視線を合わせた。

「話って、なにかな」

「友沢に会うんだろう」

どこかすれ違った言葉のキャッチボール。ノーコンな私の球を飛び上がって拾ってくれた彼もまた、意地悪く斜め上へ放ってくる。それを拾いに行く私は、彼の意図なんてくみ取れるほど余裕はない。もともと、運動は得意な方じゃないのだから。
猪狩くんにこくりと頷いてみせると、さらに憤りが染み出して来たようで彼の眉が低空飛行に顰められた。

「それなら、どうしてそんな顔をするんだ」

しかし、発せられた声はまたも私の予想の遥かはずれた暴投だった。彼が二球もミットを無視することなどあったかな、それも、まじめな顔をして。
猪狩くんは持ち前の針の穴を通すコントロールで、私からほんの一ミリも意識を逸らさないっていうのに。

やっぱり彼の真意に靄がかかって、さらに霧まで私を惑わして。すぐ目の前にいるはずなのに、その人とはとっても距離がある気がした。それが情けなくなって、私は唇を噛み締めた。
でも、そんな迷子の私の手を引くように、いいえ、そんな優しいものじゃないけれど。

「……君は、友沢がいいんだろう」

そんな優しいものじゃない、けれど、なんというか、猪狩くんらしく刺々しい思いやりで邪魔なモザイクを吹き飛ばしたの。

回転なんて考えたこともないような直球、ストレートな言葉は彼に脱帽したくなるくらいに似合っていた。ついに、いくら運動音痴な私でも、受け取れるほどにまっすぐで、混じり気のない言葉が構えたミットにズドンと入り込んできて。

返さなきゃ、自分の直球を。

そう思ったはずだったのに、私の口は開くことを躊躇う。だって、私の胸に渦巻くのは、自分の気持ちじゃないから。
手足がヒンヤリと冷めてきた。夏だっていうのに、いとも簡単に冷めてきた。雅に押されたはずの背中も頼りない。

ああ、そうだよね。まだ怖いんだ、友沢くんの気持ちを知ることが。蛇島さんの言葉も振り切って、雅にも手を差し伸べてもらったのに、それでもまだ怖いんだ、ね。

頭の中で反響して叫び合ういろんな私。でも、そんなのはここにいるたったひとりの私にしか聞こえない雑音だ。未だ言葉ひとつ膨らませない黒髪が重暗くのしかかるひとりに、猪狩くんが痺れを切らした。彼は、これ以上はないと言いたげなほどに不快そうで、心心底底から哀しそうな顔をする。とてもとても書き綴れない、難しい機械の配線図よりずうっと複雑な顔をする。

スッと彼が私に指を伸ばした。綺麗で、ごつごつした、左手の人差し指がこっちを見た。

「これが最後だ。よく聞け」

もう口のきけない私は、こくりと頷くだけ。すでに会話とかいうキャッチボールは成り立っていなくて、猪狩くんはなおもたくましく突き立てた指で言葉を振りかぶる。

「僕にしろ」

冷えてしまった体を、真夏色の風が揺らした。髪も揺らした。放たれた豪速球に返す術もなく、私は熱風に当てられていた。
天才の彼が、個性も変哲もない私に好意を抱いてくれている。そんな信じがたい想いが伝わっていないわけじゃない。でも、私は微笑むでも悲しむでもなく、ただただ猪狩くんを見ていた。

もしも、もしも友沢くんに出会ってなかったら。そうしたら、こんな風にいつでも自慢の速球、まっすぐに想いを伝えてくれるこの人と恋に落ちていたのかな。この、自信満々に我を信じて疑わない天才さんと。

運命だとか、科学じゃ知りえないことを考えた。考えても考えても、しかたないことなのに。

「私、じゃ、友沢くんと、いられないのかな」

綻びを引っ張られたかのように、滑り出てしまった。感情の瓶はすでにいっぱいいっぱいで、自分がどんな気持ちなのかはよくわからない。ちょっぴり誰かにさわられただけで、パリンと音をたてて割れてしまいそうだ。
ふと、猪狩くんから漏れたのは大袈裟だと思うくらいなため息。彼は怒ってしまっただろうか。私がこんな、弱気で、どうしたらいいか迷いすらできないから。

おそるおそる青い瞳を覗き込むと、思いがけず息が喉の奥へと消えていった。ハッとした。彼の目は、大海原のように穏やかで綺麗な色だ。私いっぱいに潮風が流れてくるような気さえする。

「東野」

「……はい」

「僕は、君が好きだ」

そっと微笑んだ後で、目を閉じた。

「だが、今の君は、僕が好きになった君じゃない。そんな東野百合香はこっちから願い下げだよ」

心臓がドクリと音をたてた。彼は鋭利な言葉を優しく私に向けたから。その棘の向こうに秘められた彼の思いは、私の背中を確かに、力強く押した。

「友沢は……あれから何も変わっていない」

猪狩くんは、ついに背を向けた。そして、私から離れていく。一歩、一歩、彼が足を進めるのと引き換えに、声ばかりが私を支配した。

友沢くんは、なにも変わってない。無口で、努力家で、それでいて優しくて。陽炎のように浮かび上がった。
私がパワフル高校のマネージャーをしていた時、目で追いかけていた友沢くん。野球だけじゃなくて、たくさんのことがのしかかっている。

支えてあげたいって、そう思ったんじゃない。

私の中の、誰かがそう言った。

友沢くんのことを真剣に考えてなかったのは私の方。友沢くんはなにも変わってないのに、自分が変わってしまっていただけ。

友沢くんが好き。それでいいじゃない、それだけでいいじゃない。

また、誰かが言った。
だから、私の足がそれに応えた。

猪狩くんに、私も背を向ける。お互いに、それが振り返ることはもうなくて、雅と去ったはずの進くんがそこにいるなんてことは私の知る由もなかった。
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