青春プレイボール!

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 甲子園で散ったあの夏から、もう長い時間が流れます。言うまでもなくプロ野球界から注目を集めたパワフル高校のみんなはそれぞれの道へと駆けていきました。猪狩兄弟、友沢くん、葉羽くんに矢部くん、そしてあおいちゃんは見事ドラフトでお声がかかり、晴れてプロ野球選手です。今日、この瞬間も練習をしていることでしょう。
 小筆ちゃん、そしてみずきは大学への進学を決めました。私が知っているのはみずきのことだけで、彼女の頭と要領の良さであれば有名な大学に通われているとでも思いますよね。ですが、イレブン工科大学、一般的なレベルの大学に通っています。彼女いわく野球をするのにあたって、勉強は最小限に抑えつつも上位にいたいのだとか。なんともらしい回答です。
 そして、私は自分の意志で大学生になると同時にこの場所に帰ってきました。親不孝者かもしれません。それでも、ここにいたいとやはり思うのです。雅には背中を何度押されたことでしょう。持ちきれないほどの手土産がないと彼女のもとには帰れませんね。
 都会の空気はしばらくぶりで、それでも四年も経っているのです。あれから。今更ではありますが、大きく息を吸い込んでみました。サッカーグラウンドの土汗が香ります。耳に垂れた三日月はもう色が変わってしまいそうなほど、この風を浴びたのでしょう。
「百合香ちゃん!」
「軽井沢くん」
「みずきちゃんはどこにいるんだ?」
「ふふ、本当にみずきのことが好きなのね」
「まあな!」
 そして、かくいう私も進学先はイレブン工科大学。サッカー部と野球部が協力したりいがみ合ったり、忙しない日々を送っています。
「今日はドラフトの日だから、きっと野球部の部室にいると思うよ」
「ああ、そういえば今日だったな。百合香ちゃんは来ないのか? みずきちゃん、百合香ちゃんが来ないと不機嫌になるんだ」
「わかった、一緒に行こう」
「よし、部室に行く前にデートでもしようぜ」
「もう、早く行くよ」
「冗談だって、プロ野球の友沢だっけ? そいつに怒られちまうよ」
「軽井沢くんってば」
 みずきの小悪魔的な愛嬌はここでも本領を発揮していて、虜にされているリトルデーモンも少なくはない。軽井沢くんもその一人で、彼女にはつくづく頭が下がる。何に関しても抜かりないのが私の知る橘みずきだ。
 みずき一筋な軽井沢くんは、彼女には叩けない軽口をここぞとばかりに挟むものだからひょうきんながら憎めないのです。一途な人はこうなのだろうか。彼女が意図的に振りまいた蜘蛛の巣にかかってしまったことは同情の余地があれども、本人が大喜びで蟻地獄へ飛び込んでいったのだから、私はこうして離れて苦笑するほかありません。
 まったくもって口のよく回る彼に飽きなどくるはずもなく、お腹が痛くなるほどに笑わせてもらいながら部室へ行くと、すでに水色の後ろ姿がテレビを前に珍しく正座で佇んでいます。ずうっと変わることのない左側高めの尻尾も今日はどこか大人しくしているので、話しかけずにはいられない。
 彼女は私に振り返ると、遅いと叱りつけ隣を手で叩く。座れということでしょう。言われた通りに腰を下ろすと、全貌が見えてきたテレビに集中することにしました。なお、好意を寄せる女の子の隣にお邪魔しようとした軽井沢くんはみずきから本当にお邪魔扱いを受け、泣く泣く本職の部室に帰って行きましたが。
「かかるかな……」
「弱気なの? 珍しいね」
「だってえ! 高校の時は私だけかからなかったんだもん」
「でもみずきは頑張ってきたんだし、信じようよ」
 甲子園前の不調が響いたのでしょうか。彼女の言うように、高校の時はクロスファイヤーに、なによりクレッセントムーンという世界でみずきにしかない武器を持ちながらもプロ入りはできなかったのです。あの不調は私も片棒を担いでしまっているので、申し訳ない気持ちにもなりますが。
 今年の夏の甲子園の立役者さん、試合をしたことのある大学の四番打者、順番にこの業界での有名人が呼ばれていくけれど、彼女の名前は未だ呼ばれない。私の手を握る柔らかくも固い手は、こんなにもマメだらけだというのに。プロのスカウトは私よりも見る目がないようだ。そんな呆れやら焦りやら憤慨が作り出した私が隠しきれず、腹いせに彼女の手を握り返す。強すぎてしまったかと思ったけれど、彼女にとっては造作もないことだろうから遠慮はしない。
 小ぢんまりとした部室にこれまたさらに小々ぢんまりと互いを頼りに寄り添う私たちは傍から見たら異様そのものでしょうが、その光景がついに報われる瞬間が来ました。
「ね、ねえ、い、まの……」
「うん、た、たちばなみずきって……」
 目をぱちくりし合う私たちは、間に鏡を挟んだよう。
「まだ一巡目……」
「それってつまり一位指名ってことじゃ」
「一位指名……私が……」
「キャットハンズの選手、だね。来年から」
「いやったー!」
 ようやく湧き上がってきたことの事実は、威勢よく抱きついてきた彼女が教えてくれた。プロ野球史上二人目の、女性選手だ。しかもドラフト一位。ジワジワと私を満たしていくこの高揚感はなんでしょう。堪えきれなくなって、目の前の新プロ野球選手に私からも昂りに身を任せた抱擁を送った。
「やったねみずき! おめでとう!」
「うん、うんっ! やった、プロよ!」
「本当、よく、頑張った、ね……!」
 私なんて感極まりも余ってじんわりと視界が滲んでくる始末。けれどお世辞じゃなく、彼女を近い場所で見ていたのだからこれくらいはさせて下さい。
 彼女の肩に顔を埋めれば、みずきは私の背中をさすり始める。
「ああ、もうっ。なんで百合香が泣くのよ」
「泣いてないよっ、ちょっと感動しただけ……」
「それを泣くっていうのよ。ほらほら、みずき選手が胸貸してあげるから。トクベツだからね!」
「お借り、します」
 私はトクベツ枠を手に入れたようで。ドラフトよりも嬉しい誘いに、私こそ彼女をひっしと掻き抱く。これじゃあ軽井沢くんのことをどうこう言えない、親友をうたう私がこれじゃあお笑いもの。飛んで蜘蛛の巣に入る夏の蝶々。さしずめアゲハチョウかなにかだ。
 けれど、そんな蝶々になるのも悪くはない。綺麗な薔薇にはトゲがあるというけれど、トゲを避ければ甘美の蜜が待っているもの。それを探し求めるのも、悪くはないよね。幸いにも、愛らしい彼女は愛らしいまんまだ。
「みずきぃ」
「はいはい。百合香は変なところで泣きやすいのよね、見てたら私が落ち着いてきちゃった」
 ため息混じりの撫でる手は温かくて、私の目頭はさらに熱くなる。彼女がもがき苦しんでいた高校三年の夏、その悔しさを滲ませた大学四年間、ずっと頑張ってきたことをこの手はわかっているんだもの。
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