青春プレイボール!

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 彼のことをなめていたわけじゃない。お金持ちだということも、今の今まで車やプロの試合での優遇っぷりでちゃんと知っていた。身を以て、だ。けれど、車に揺られて数十分。ドアを開けてくれた運転手さんにお礼を言いながら地に足をつけると、想像を遥かに超える大豪邸が建っていた。
「こ、ここが、猪狩くんの家……?」
「そうだよ。さ、こっちだ」
 とんでもないところに来てしまったな。そう冷や汗が滴れるけれど、もう引き返すこともできないから彼の隣を歩く。平静に。おかえりなさいませと迎えてくれた執事さんが、私と猪狩くんの荷物を持ってくれて。どうやら、猪狩くんの部屋に運んでくれるらしい。−−執事さんって、なに、ここ。雰囲気に圧倒された私の脆い気取りは吹き飛び、彼の服の裾をキュッと掴んだ。
「服じゃなくて、僕の腕を使ってもいいよ」
「け、結構です」
「照れなくてもいいさ」
「照れてないですっ」
 意地悪に笑う猪狩くんに抵抗しながら、広くて長い廊下を歩く。視界の端に見えるステンドグラスにまた背中が伸びた気がした。お金持ちさんっていろいろな作法があるのかな。私がやることなすこと、粗相を犯していないかしら。足のつま先から下ろすように歩く。私が持つモデルさんの歩き方のイメージだ、イメージ。いくら焼け石に水とはいえ、無いよりはマシでしょう。
 彼がここだよと誘導してくれた階段を降り、地下の分厚いドアが開くのを眺める。すると、部活で見る機材やセットが置いてあって私はようやく肩の力が抜け落ちた。これは間違いない、彼の練習場だ。機械に見覚えがあるもの! 既視感にここまで安堵をいただいたのは初めてかもしれない。壁には9つで区画された長方形が描かれていた。そこは、マウンドから一直線の位置で。二ヶ所だけ黒ずんでいる。ブルペンほどのそのスペースは、彼の努力を体現していた。
 猪狩くんは着替えてくると上着を脱ぎ、私に羽織らせると練習場を出ていく。秋が過ぎ、冬が来ようとしているこの季節。コートは着ていないものの厚着をしている私にも、彼の上着は手が隠れるほど大きなもの。地下のひんやりと冷めた空気が、彼の優しさで幾分温かく感じられた。
 ひとりになった私は黒い点に触れてみる。あんなに分厚いドアなんだ、壁もきっと厚いものだろうに。少しへこみを感じさせるそこは、いくつの球を受けてきたのだろう。インローとアウトロー。背が高く、球が速い猪狩くんは、そこに集まればストレートだけでも角度がある武器になる。天才だと言われているのを聞いたことがあるけれど、やっぱり人一倍も努力しているんだ。
「おまたせ。……うん? どうしたんだい」
「ううん、なんでもないよ。練習、見てるから。がんばってね」
 スポーツウェアに着替えた猪狩くんの登場に壁から離れ、置いてあるベンチにお邪魔する。彼のタンクトップから覗く肩や腕も努力の結晶なのでしょう。
 マウンドにあがる猪狩くん。ロージングバッグを拾い上げて一振り二振りすると、ワインドアップモーションに入る。いつもよりもゆっくりとして見えるその動作に、私は釘付けとなった。彼の代名詞とも言える豪速球。私が座っているこの場所にまで、猪狩くんの内に秘められた熱さが空気を伝ってくる。プロにも匹敵しそうなそれは、巨大な音を立てて地に落ちた。予想していたものよりずっと大きな音で、私の身体は大きく震えることとなった。
「怖いかい?」
「そんなことないよ。ちょっとびっくりしただけ」
「そうか……」
「すごいんだね、猪狩くん」
「当然さ。そうそう、ここに人を連れてきたのは家族以外でキミが初めてだからね。光栄に思いなよ」
「……うん。こんなに近くで猪狩くんが投げているの、見たことないもん」
 猪狩くんに心配させないためにも、ニコリと笑ってみせる。すると、彼は私とは違うしたり顔で指差した。私のことを。
「見ていなよ、東野」彼なりの、言葉だ。
「……うん」
 そして、それを皮切りに彼は私を視界から捨てた。

 あれから、何球投げたのだろう。猪狩くんの顎からは汗が滴り落ちていた。もう一球、と振りかぶる。きっと、私がいることもおそらく頭から抜けているのだろう。脇目もふらずに真っ直ぐ前を見ている。でも、どこかその真剣な顔に楽しげな雰囲気を孕んでいるのだから、目が離せなくなる。無意識のうちにジッと彼ばかりを見ていれば、彼が私の視線に気づいて目が合ってしまった。
「見惚れていたのかい?」
 探るような笑顔から目を逸らす。しかし、それに気づいたのなら、猪狩くんはボールを手から落として近付いてくる。私の隣に腰を下ろす。数刻前まではこちらから穴が空くほどの熱視線を送っていたくせに、詰められた距離では彼からのそれに私は気恥ずかしくなり指をいじった。少し息があがっている猪狩くんは、いつもの余裕がなさそう。それが、私にも移ってしまったかのようだった。
「お、つかれさま」
 震える声で頼りなく話題を変えれば、猪狩くんはその表情を変えずに、私の髪に触れた。
「東野」
 名前を呼ばれる。汗ばむ左手。悪いことをしているような不思議色の緊張感になにもできず、されるがままの私。なおも彼は、色も型も変哲のないつまらぬ黒髪を指で器用に弄っている。
「……僕の方が、上だよ」
 脈絡のない言葉は私の顔を猪狩くんに向けさせた。どこか、切なげな顔をしていて何も言えない。上って、どういうこと。僕の方がって、誰と比べて、なにが、どうして。聞きたいことはたくさんあった。けれど、彼の表情は、そのどれもを拒んでいるような気がして。
「猪狩くんは、すごい人だよ」
 どれほど陳腐で薄っぺらいセリフなのだろう。それを聞いた猪狩くんは眉間にしわを寄せた。野球をしていないはずの私の頬を、冷たい汗が伝うの。
 そして、なぜだか。気づけば、私の背中はベンチに倒されていて。猪狩くんの肩越しに天井が見えた。どういうことなの。必死に頭の中を整理してみるけれど、動揺して上手くできない。
「どうして……」
 絞り出された声。その真意はわからないまま。
「どうして、友沢なんだ……」
 意外な人の名前に心がさざめく。こんな時でも気持ちは素直で。ドクンと高鳴った。
「友沢より、僕の方が上だよ」
「上って……」
「あんなやつ、東野には合わない。僕なら……」
 私の上にいる、猪狩くんの顔が近づく。本能的になにかを感じ取った私の頬にぽとりと、彼の汗が落ちてきた。雫はとても冷たくて。いや、冷たいと思うことにしたのかもしれない。
「猪狩くん、このままじゃ身体を冷やしちゃうよ! 私、それで風邪をひいたこと、あるんだから! ほら、まずはシャワー浴びてきて、ねっ!」
 無理矢理、彼を押し返して練習場を出た。猪狩くんの口から友沢くんのことが出てきた時のことだ。あんなやつ、なんて。これ以上、聞きたくなかった。とっさに出てきた提案に身を任せて不格好に笑ってみせたけれど、泣いてしまいそうだった。どうして。理由はわからない。どうしようもできなくて顔を覆った袖からは、皮肉にも猪狩くんの匂いがした。
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