青春プレイボール!

□16
1ページ/2ページ

 秋が終わって、野球部にひと区切りついた。そんな時、監督から出された一日オフ。当時はみずきと大手を挙げて喜んだけど、夜になってから明日はどうしようか、なんて考え込んだ。すると、携帯が私を呼ぶ。あまり鳴らないものなのに、どなたでしょうか。手に取ると意外な人から連絡が来ていた。
 やあ、僕だよ。なんて名乗りもしない時候の挨拶にボクボク詐欺でしょうかと訴えそうになったけれど、言ったら怒られそうだからやめよう。直ぐさま日本の時間による挨拶が飛び出したこの口は、案外存外に優秀なのかもしれません。
「こんばんは、猪狩くん」
「東野、いいかい。今から僕が言うことをしっかり心に留めておくんだ」
「はあ……」
 のですが、口を褒め称える前に彼が覆い被さってきたようなのです。いきなりなんだというのでしょう。ささやかな賞状授与式会場はすでに破損済み。大富豪、御曹司、猪狩くんの考えることは一般人の私にはよくわからない。そんなに大事なことを話すのかな。例えば、部活の事務連絡であってはみずきにも関係あるもので、聞き逃しても困る。いくよ、と前置きを入れた彼にとりあえずとメモを片手に待ってみた。
「明日、七時には起きて身支度をするように。ああ、綺麗な格好をするんだよ。キミの家に十時に迎えに行くからね」
「……へ」
 プツ。無機質な音をたてて、通話が切れた。……なんでしたか、とんでもないことを言っていませんでした? あの人。明日の十時に迎えに来る? 嘘でしょう……。しかも、私の予定も確認しないで切っちゃったよ、あの人。……寝ましょう。私の頭じゃ処理しきれなくて、ベッドに横たわる。いいのよ、明日は明日の風が吹くってね。え、明日やろうはバカやろう? ……バカじゃないもん。おやすみなさい。

 明けた後日、なにはなくとも十時に間に合うように服を着る。一応だ、うん。一応。身支度をしている最中に、友沢くんに以前言われたことが脳裏に浮かんできた。私がオシャレした時のこと、私のいつもと違う姿を、猪狩くんは見たことがあるのかどうか。その言葉から何を思ったのか、メイクとか、髪を巻いたりとかはしなかった。
思い上がってるみたいだけど、そこのキミ、そう、よそ行きの格好で正座をしているキミ。きっと友沢くんは、明日の天気を尋ねることと同じ要領なんだから。深い意味なんてないんだから。期待しちゃダメよ。友沢くんのことを思い出して、頬に手を当てる。熱い。その事実がさらに私を火照らせている気がして、深呼吸をしていると、部屋に人を知らせる音が響いた。
 信じていなかったわけではないけれど、本当に来たようです。玄関まで行きドアノブを捻ると、そこにはやはりといいますかなんといいますか、私服姿の猪狩くんがいた。制服とユニフォーム姿しか見たことがないせいか、見慣れなくて私は瞬きをする。まるで別の人にすら思える彼が私を見下ろした。しかし「東野、行くよ」と私の予定すら聞いてこない彼に、いつもの猪狩くんだ。日常が返ってきたのだと安心した。どうせ、言われずとも野球部以外には何の予定もない、色気のいの字すら隠れたままの女子高生である私は、来てしまったからには追い返すこともできないと彼の後を指標にした。
 ところで、どこに行くのだろう。思い返せば、今日のことは何も聞いていない。大きな背中の真ん中を突き抜ける高価そうな服の折り目に気を取られながら、私は彼を呼ぶ。やはり、この人はお金持ちであり、私は庶民なのだと思った。自分の腕を見ても新品のころの折り目はすでに消えている。彼はドアを開けながら私に振り返った。
「なんだい」
「あの、どこに行くの?」
「フフ、まあ今日は僕にまかせてくれよ」
「まかせるって……えっと」
「キミは見ていてくれ」
 さあ、と差し出された手をまじまじと見つめる。すると、猪狩くんは痺れを切らしたらしく強引に私の手を取った。まったく、だなんてため息をつかれると申し訳なくなってしまうけれど、私はただでさえ混乱しているのだから勘弁してほしいのが本音です。だって、彼の見えている世界と私のそれと、ほんの少し、いえかなりズレがあるのかもしれないのですから。……家の前に大きな黒い車が停まっているなど、普通の人のしでかすことではないと思うの。私の地元ではそんな大層なお車さんは走っていません。
 彼は私の当たり前など当たり前のように無視し、硬直寸前でロボットのような私を当たり前のように車へと詰め込んだのです。お金持ちの方はみなこうも我道を突き進むのかな。あれよあれよと私に貼り付けられたシートベルトをなぞりながら考えたのでした。

 猪狩くんが連れてきてくれたのは、なんとプロ野球の試合だった。しかも彼の家の関係か、選手たちがすごく近い席。テレビで見るよりずっと迫力が有り余る。大きなドーム、たくさんの人、速くて強いバットスイング、豪速球。今まで見てきた野球の全てが、スケールを広げてここにある。そっか、プロの試合は声援や鳴り物がこんなにも大きな音で響いているんだ。わあ、応援歌まであるのかな? さっきの選手とは別の曲が流れている。あっ、見ていたら応援されている選手が打った。内野を越えて上手く落ちた球に、一際声援が大きくなった。
 いつものベンチからとはまた違う場所。ピッチャーの表情が見える。バックを守る内野陣、そしてランナーも。ピッチャーの選手は顎から汗をひとつ滴す。猪狩くんの招待だからこそ目撃できた選手の姿に、私は胸が熱く染まった。田舎者なんぞがここにいてよろしいのでしょうか……! 喜びも一周すると恐ろしくなるみたいです。
「初めてかい?」
「うん、ありがとう!」
 たんぽぽカイザースと頑張パワフルズの試合。こうして彼と一緒に試合を見ていると、覇道高校へ偵察に行ったことを思い出す。あの時みたいに、猪狩くんは足を組んで澄ましている。しかし手元に置いてあるお昼ごはんには手もつけないくせに、目だけはギラギラと光りながらしっかり見ているのです。そう、偵察と同じように冗談のない真面目な顔で。つまるところ、彼にとってプロ野球がなんだということなのでしょう。もう、彼らに目を輝かせる歳ではないのかもしれない。猪狩くんにとって、越えるべき人たちだということ。
「ああ、今のは球が浮いたね。僕なら低めに集められるというのに」
「……ふふ」
「なんだい?」
「ううん、猪狩くんらしいなって」
 私の不謹慎な笑みに猪狩くんは不機嫌そうだけど、ごめんなさい。私からすれば、プロ野球選手よりあなたの方がよっぽどプロ選手のようなんだもの。貪欲で、野球にはプライドも実力も壁のように高くて。でもね、時々手とか、指とか。小さく動かしているのが見えてしまうの。だから、私の思っていたことは嘘ではないと自信をもてる。またもや微笑が抑えきれない。同時に祈った応援も、彼に届いているといい。
 結局、試合は頑張パワフルズが圧勝。強いねと言えば、カイザースが弱いんだと返された。その後、彼はまるで野球評論家のように、試合のことを話してくれて。まだまだ野球に不案内な私は、必死に相槌を打って聞いていた。そうか、野球は本塁に近い選手を生かすために他のランナーを犠牲にするような手法もあるんだ。奥が深いなあ、私では考えつかない作戦がたくさんあるに違いない。
 不意に、猪狩くんは携帯を取り出す。なにをするのだろうと見ていれば、どこかに電話をかけ、いつもの上から目線、いえ、口調で頼みごとをしていた。矛盾を感じるかもしれませんが、本当に高みの見物口調と何かをお願いする言葉は両立していたのですから驚きです。やがてそれが切れたのを確認してから口を開いた。
「どうかしたの?」
「迎えを呼んだのさ」
「迎え? 車なら、来る時に乗ってきたよね」
「ああ、あれは送り用の車さ」
「……へ」私の目は点になった。
「今から来るのは、迎え用の車だよ」
 猪狩くんの意図が読めずに固まっていれば、彼はフッとひとつ鼻で笑う。でも、無理もないこと。だって、送るも迎えも同じ車じゃない。分ける必要がどこに……ううん、きっと、庶民にはわからない、ましてや田舎民には予想も不可能なお金持ちらしい理由があるのでしょう。ええ、そう思うことにしましょう。
 しかし、彼は相変わらず私のことなど無視をして、とんでもないことを口にするのです。脳のキャパシティがあるものなら、すでに容量不足だ。
「僕の家に招待しよう」
「……なっ」
「だから、僕の家さ」
「猪狩くんの、家?」
 ほとんど役目を果たしてくれない口で赤子よろしく復唱すると、その後は言葉を続けることができずに顔の前で手を振って意思表示。だって、私みたいな庶民どころか田舎者がお邪魔できない。しかしそれを見て、はいそうですかと引き下がる彼でもなかった。来いと念入りに押されてしまえば、私がそれに勝てるはずもないのだ。ここまでないないと否定ばかりしている私ですもの。最初から勝負はついています。それに電話してしまった以上、お迎えは来るわけで。しかたなく、その迎え用のリムジンとやらに詰め込まれてしまった。
 詰め込まれるとはいっても、中ではそれはそれは親切に扱われた。運転手さんには様付けで呼ばれ、こちらまで運転手様と言ってしまう始末。東野様だなんて、世界の東野さんのためにあったとしても、私のためには存在しない言葉だ。彼は本当に住む世界が違う。小さく揺れる車体の中で、スカートの裾を握りしめて下を向く。なんと場違いな世界なんだろう。
「そんなに固くならなくていいよ。練習場に行くだけさ」
「……練習場?」
「ああ、プロを見ていたら投げたくなってね」
 しかし、ずるいことに猪狩くんの楽しそうな横顔。そんなものを見せられちゃ、黙ってついていくしかない。図々しい神経をぶら下げたまま、リムジンはもうすぐ家に着くらしいのだ。
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ