青春プレイボール!

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甲子園も、行くからね。

なあんて、当たり前な言葉でみずきと別れた数時間前。私は帰るべき地に立っていた。すっかり人っこひとりもいない駅を背に、私は夢みたいで本当のことを思い出していた。
感極まってしまうほどのピッチングを披露した彼女とキャッチボールだなんて、今思えば私史に残る出来事じゃないかな。慣れないことをした右手がじんわりと痛覚をつついてる。それすら、忘れたくないから手を閉じたり開いたりしてみた。うん、痛い。
でも、それを見つめる私の顔は緩んでる。だって、みずきとやーっと仲直りできたんだもん。嬉しくないわけないんです。えへへ。

結局、友沢くんとはあれ以来顔を合わせることもなかった。でも、みずきパワーかな。モヤモヤしていてもどうしようもない。今は決勝の、そして彼女とのキャッチボールの余韻を胸の福音にしようって思えたの。
心のモヤは残っているはずなのに、私はなんでもできそうな気分だった。三ツ星レストランのメニューも作れそうだし、坂道を駆け上がることだってできそう。自然に心がスキップして、それに足がつられていく。ぴょんぴょんと跳ねる髪までえらくご機嫌。
甲子園、楽しみだ。パワフル高校は選手層も名前看板も厚いし、もしかしたら……もしかするんじゃないかな。そんな事を考えては、へらへらおさまらない顔を唇で「もう、落ち着きなさい」としつけつつかき消していた。

その時、私の目には見覚えのある人が映る。長い髪、優しさが滲み出る雰囲気、私の中で一番近いプロ野球選手でした。蛇島さん、彼を見ると友沢くんが嫌でも浮かんでくる。シャボン玉のように気をとられて、やがてパチンと消えた。

「おや、東野さん。もしかして神宮球場の帰りかな?」

「すごい、正解です!」

「……そりゃあ、僕も高校球児だったからね。甲子園出場、おめでとう」

微笑む蛇島さんに、同じものを返す。しかし、次の瞬間には全てのシャボン玉が消え、みずきでも友沢くんでもない、蛇島さんにだけ心を注ぐことになる。だって、彼の大切な右腕に包帯が巻かれていたから。以前、私がその境遇だったような気もしなくはないけれど、プロ野球選手と一般人の腕なんて月とスッポンだ。金銀でできたそれと石ころ雑草を継ぎ接ぎしてできたそれ。同じ血が流れていると思えますか。

とにもかくにも、私に気づいて笑顔を振りまく蛇島さんに、石ころの手を伸ばしたのでした。

「その腕、どうしたんですか!?」

「ああ、これですか? 野球することが仕事ですから。これくらいかすり傷ですよ」

「でも、包帯だなんて……」

「見た目が大袈裟なだけです。打撃にも守備にも支障はないのに……これでは驚かせてしまいますよねえ」

困ったように微笑む蛇島さんが私に気を遣わせまいとする。だけど、もちろんそんなのは私にとって甘汁にもならない。

「無理しないでくださいとは言えませんが、心配します……」

きっと彼にとっては迷惑にしかならないこの気持ち。でも、自分勝手ながらそれが伝わってほしくて蛇島さんを見上げると、相も変わらずきゅっと細められた目が私と交わる。

ちょっとだけ、そのままで時間が流れた。そんな気がした。

「……やはり、あなたは素敵な女性ですね」

そして、長い髪を揺らした蛇島さんを纏う空気、それがもようがえをしたように私には違和感が訪れる。でも、まだ厚いガラスを挟んでいて、どこか不透明。

「そ、そんなことありません。蛇島さんは友沢くんの先輩ですし、プロ野球選手なんですから」

胸の前で手を振ってみても、ガラスはびくともしない。

「友沢くんの先輩、ですか」

いいえ、眉を下げた蛇島さんにほんの少し、ほんの少しだけガラスの厚さが削られたかもしれません。哀愁漂う彼の表情に、たらりとひとつ汗が伝う。

「僕は、東野さんにとって……それ以上の男にはなれませんか」

うそ、伝ったのはひとつなんかじゃない。もうひとつ。さっきまで動きすらしなかったガラスは、一瞬で真ん中に大きな穴が空いて、使い物になりそうにはなかった。そして、不透明だった空気の正体に私はだんだんと目星をつけていってしまうの。

「あ、あの、何を……」

「僕は」

頬に流れるいくらかの汗を拭うこともできない。

「友沢くんより、東野さんを幸せにできる自信があります」

包帯が巻かれた腕が私の手を掴んで。確かに見た目ほどではないのかと、二本の当事者たちは思いの外ケロリとしているのかと、これまた当事者らしかぬことを頭の隅の方で考えていた。

なにがあった、目の前にはいつも通りの蛇島さん。なにも変わらない、はず。ただ、唯一違うのは私の聞いた言葉。友沢くんより私を幸せにできるって、つまり、そういうこと。冷や汗がもうひとつ流れた。

「東野さん」

「は、はいっ」

繋がった腕に汗が流れていきませんように、ひっそりとそんなことを考えて私は蛇島さんを見つめることしかできなかった。
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