青春プレイボール!

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 みずき選手の胸を借りるだなんて贅沢なことをしていた時だ。ポケットで静かにしていた私の携帯がけたたましく震え上がる。その揺れは私だけなら良かったものの、くっついていたみずきにも伝わってしまって。互いに顔を見合わせるけれど、気づいてしまったものはしかたがない。
「もうっ、誰よ! こんなに空気読めないヤツは!」私は携帯を見る。
「友沢くんだ」
「なんなのよアイツ!」
 彼の名前が出た途端、釣り上げた眉に頬が膨れるおまけがついてきた。しかし、こんなタイミングにかけてくるとしたら。ひとつの予想が頭を掠める。
「ひょっとしたらみずきへのお祝いかもしれないよ」
「あっ、そうかも! 百合香、出て、出て!」
「はあい」
 こんなにも扱いやすいプロ野球選手がいてもいいのでしょうか。彼女は騙す側の人間だと認識している反面、騙されやすい一面もあるよね。楽しそうな顔を横目で差し置き、まだかと騒ぐ携帯に待ったをかけたのでした。
「もしもし、どうしたの?」
「ああ、ちょっと報告したいことがあってな」
 もうみずきと同じくらいの付き合いになる友沢くん。だからこそわかる、緊張したような早く言いたそうにする上澄みの声だ。報告したいこと、きっとみずきのことかな。それならもう知ってますよ。次に出る言葉を我慢しながら私も彼女と同じ笑顔になったのです。
「猪狩コンツェルンがたんぽぽカイザースを買い取った」ほうら、きた。
「そうなの、みずきが……あれ?」
「橘? アイツがどうかしたのか?」
 どうかしたか、それはこっちのセリフだ。みずきのみの字も出なかった彼の言葉を頭の中で繰り返す。
「猪狩コンツェルンが、たんぽぽカイザースを買い取った……?」
 頭から漏れ出したオウム返しは、目の前の女性プロ野球選手にヒビを入れるのには十分なもので。可愛らしい顔がサァッと歪められたのを私は見ました。
「ちょっと、どういうことよ!」私の手から携帯がすり抜けた。
「あっ、みずき!?」
「友沢、そこはみずき様にプロ入りおめでとうございますでしょうが! えっ、なに、知らなかった? 今日がドラフトだって初めて聞いた? アンタ本当に野球やってるワケ!?」
「あの、ちょっと……」
「はあ!? どうでもいいってなによ! こら、もっと心をこめてお祝いしなさい!」
 こうなってしまっては私の声も蚊帳の外。なおも友沢くんに食ってかかるみずき大魔王からの携帯救出を諦めることにした。
 しかし、みずきのプロ入りが決まったから彼は電話してきたのかと思っていた。正直なところ、猪狩家が球団を買収したということは確かにビッグニュースかもしれない。でも、わざわざ連絡することなのかな。他にもっと言いたくなるようなことがあったのかもしれない。携帯が四分の三ほどもち腐れている彼にしてはとても珍しいことだから。
 そんな失礼反面、頭を下げる直前に事実だと言い張りたくなる部分をひとり浮かべて頷いていると、みずきの顔が徐々に落ち着いてきていることに気がついた。
「えっ、百合香に? うーん、仕方ないわね」不服色は残しながら、携帯電話が返されます。
「もしもし、やっぱり他になにかあったんだ」
「気づいてたのか」
「まあ、珍しいなあとは思っていたから」苦笑を零す。
「……ああ、まあ、よく聞いてくれ」
 彼はこれまでの空気を一変するように言葉を切った。耳の向こうで小さく咳を払う音が聞こえる。
「たんぽぽカイザースが猪狩カイザースになって」
「あ、そっか」私は頷きます。
「本拠地も東野の実家の近くから、こっちの方に移転する」
「確かに、そうだね」再び頷きます。
「それで、だ」
「うん」
「猪狩さんに次のシーズンから来いと言われた」
 私は今度こそ首を縦に振ることはできなかった。耳元で友沢くんに囁かれた言葉を反響させると、友沢くんの後ろから遠ざかっていくのは今彼がお世話になっているホワイトブルーの球団で。
 やっと意味を噛みしめることができた。そうか、つまり。
「い、せき……?」
「まあ、そうなるな」
 会話の片声だけを聞いているみずきも目を見開いた。やはりこれは驚くべきことであって、四苦八苦しながらようやく返事をすることに至った。
 けれど、たんぽぽカイザース改め猪狩カイザースはセ・リーグ。一方のキャットハンズはパ・リーグ。現在友沢くんが所属している球団であれば、みずきとの対決も臨めたのになあ。見てみたいと思っていたから残念だ。
「それと、だ」
 そのうえ、彼も止まらない。正直なところ、球団側からの引き抜き表明の時点で私は頭がいっぱいいっぱいなのだ。
「猪狩カイザースからまあ、その、移籍に当たってかなり年俸を引き上げてくれるらしい」
「お金持ちは住む世界が違うなあ」
「ああ、だから、その」
「うん?」
 なんだか今度は咳払いでも払い切れなさそうなくらいに口籠っている。もともと喋ることは野球に比べて雲から見下げるほど得意とは言えない彼だけれど、物怖じしない性格とは打って変わってこれも珍しいこと。
 どうしたんだろう。静かに彼が口を開くことを待つ。耳にはああだのうんだの、意味を持たない呟きが届いては消えていく。
「だから、だな」彼は話す気になったようです。
「うん、なにかな」
「……一緒に、住まないか」
「う……ん?」
 私は空返事しかできない。一緒に住むって、どういうことですか。生活を共にするってこ、と? そ、それってなんだか……なんというか、あの、えっと、まるで、その……。ああ、もう、身体中の熱が全部顔に集まってしまう。
「え、ええっ……」
「……猪狩カイザースは、実力主義に生まれ変わると言っていた。今以上に翔太たちには負担をかけるだろう」
「あ、そういうことですねっ」
 今まで朋恵ちゃんと翔太くんにご飯を作りに行ったことは何度かあった。これからは猪狩カイザースで野球に集中したいから、毎日そうして欲しい。つまりは今までの延長線上だ。それなら躊躇う理由もない。この恥ずかしい頭は何を考えたか知らないけれど……しっかりしなさい。
「うん、わかった」
「ほ、本当か!?」
「翔太くんと朋恵ちゃんのためだもの。一緒に住んで、友沢くんがいない分を埋めればいいんだよね」
 強引に冷やしてしまおうとなるたけ穏やかに話したのだけれど、彼の返事が聞こえてこない。その代わりといってはなんですが、私の手はまた空虚感を味わうこととなりました。
「ちょっと、百合香と一緒に住むってどういうことよ! ふん、関係あるわよ、百合香は今私と一緒に住んでいるんだから!」元凶はもちろん彼女です。
「私の家に転がり込んでいるだけね」
 でも、確かに彼女を残していくのも気が引ける。どうしようか。みずきが友沢くんにありったけの罵倒をかましているところ、私は自ら一線を退いた。
 友沢くんは私に自分の穴を埋めてほしいと頼んだ。それならば、私がずっといなくても、やるべきことをきちんと熟せば大丈夫だろう。家から友沢さん宅に通うことは無理な話ではない。それで十分毎日料理を作れる、家事も同様に。そうだ、これでいい。これを友沢くんに提案しよう。
「みずき」
「なによっ!」彼女はご立腹なようです。
「私、家に残るよ。その上でちゃんとやっておくから。友沢くんにそう伝えてくれる?」
「本当!? わかったわ! みずきちゃんにまっかせなさーい!」
 彼女の角立った目を弓なりに微笑ませるのはなんといいますか、とても簡単なことに思えてきます。こういうところが可愛いっていうんだろうな。小悪魔モードの外でも十分だ、ゲンキンな子ですね。
 しかし、意気揚々と友沢くんへ話していた彼女の顔がだんだんと曇っていく。どうしたのでしょう。怒ってはいないようですが、円な瞳をぱちくりとさせる彼女は私に携帯を差し出しました。
「どうしたの?」受け取って耳に寄せます。
「……どうしても、だめか」
 聞こえてきたのは思ったよりも弱々しい声だった。
「ちゃんと料理は作るし、家事もやっておくよ。朋恵ちゃんと翔太くんに苦労はかけさせないから」
「それだけじゃない」
「うん?」
「俺が……家に帰った時、東野にいてほしいと思うんだ」
 友沢くんの低い声が耳をくすぐって、私はつい携帯から身を離してしまった。みずきの不思議そうな顔が私に尋ねる。顔が赤いけれど大丈夫か、と。大丈夫なものですか。なんなのでしょう。好きな人のそんなひとこと、どれほどの威力があるのか、あの人は知っているのでしょうか。
 東野? と遠巻きに聞かれ、私はもう一度染まった耳をすませた。彼はやはり天然の気がある。
「もう、そう言われたら断れません」
「それなら……!」
「……うん、私でよければ」私の頬はまたもや熱くなりました。
「東野がいいんだよ」
 ああもう、この人はどうしてこうなのかしら。みずきに携帯を託して離れました、この前線から。こんなところに長時間もいたら、耳がもたない。
 みずきが代わりにどういうことだのなんだの反論してくれている。私は黙っているだけでいいでしょう。というか、そうさせてください。
 でも、これからは友沢くんのことを今より支えてあげられるのかな。そう思うと、私としては願ったり叶ったりなことです。彼は、あの時より私を必要としてくれているのでしょうか。それは彼だけが知ることですが、もし、もしも、そうであるならば、私はとても幸せなのです。
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