一日一アプリ

□純情乙女奮闘記
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 薄明かりの下、先生も生徒も去っていったこの時間。すっかり身支度の整った鞄はまだ帰らないのかと私を見上げています。
 けれど、私はどうにもこうにもグラウンドから身体が離れません。その理由はただひとつ、クラスメイトの小平くんが野球をしているから。つまるところ、私は彼の魅力に首ったけということです。
 臆病な私にとって、この光景は珍しいことではありません。しかし、今回ばかりはこの場面に緊迫の空気が書き足されていたのです。手の中にいるはかれこれ何個かの犠牲の上に成り立つクッキー、これを彼に渡そうというのですから驚きです。
 ちっぽけな勇気を手さげて、私は彼の名前を呼びました。すると、単なるクラスメイトにも優しい声で返事をしてくれる小平くん。私の鼓動はすでに動悸寸前といったところでしょう。
「あ、あの!」
「名字さん、なにかな」
 私は彼に投げつけそうな勢いで両手を伸ばしました。
「これ、もらってください!」私の顔はさぞかし真っ赤でしょう。
「うん、ありがとう」
 しかし、そんな体温が場違いなほど簡単に、私の手も頭も占めていたクッキーは彼の手に渡ったのです。誰しも虜にされそうなあの笑顔つきで。
 もらって欲しいと言ったのは紛れもなく私ですが、あまりにも出来すぎていたものですから、むしろこちらの顔が凝り固まってしまいました。彼は「わあ、美味しそう。疲れた時は甘いものだよね」と無邪気にクッキーを頬張り始めたというのです。
 ですが、やはり好意を抱いている相手から喜ばれることは少なからず私を充足この上なく満たしていくもので。作ってきて良かった、と彼の口に消えていった甘味に感謝を残すことにしました。
 そこからは単純で、スキップをしながら家に帰ったものです。彼との距離をほんの少しでも縮めることに成功したのだと思って。小平くん、疲れた時は甘いものって言っていたよね。日々野球部で汗を流す彼が、私の作ったもので休まるだなんて夢のよう。
 夕焼けと一緒に伸びる影が、私の後ろを嬉しそうに着いてきました。小平くんが女の子からなにかをもらうことなど、野球部の面々にとっては三度の飯より多いことなど知らずに。

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