一日一アプリ

□真実は彼のみぞ知る
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「……!」
 な、なんだこの状況は。いつもより低い視界から見上げるのは、見知った野球部のエースピッチャーだった。ヴァンパイアでもミイラでもなんでもないこの女性ピッチャーには、俺が人狼であることはバレていない、のだが。
「か、可愛いー! ワンちゃん、どこから来たのかな? わ、モフモフ!」
 日頃クールで群れるのを嫌う彼女のことだ。てっきり俺に興味など示さないと高を括っていたのだが、それは大きな間違いであったらしい。彼女は俺をひとたび見れば、溢れんばかりに目を輝かせて駆け寄ってきた。ちなみに、グラウンドではこの半分もない薄い瞳で威圧するのが彼女だ。
 むしろ、驚いたのは俺の方。コイツ、動物が好きだったのか。というより、溶けそうなほど甘ったるい顔をするのか。そのギャップは今まで数多く見てきたわけだが、他を寄せ付けない圧倒的な差だ。鳴くことも出来ずにただ目を丸くしていた。
「そうだ、お姉ちゃんが飼い主さんを探してあげよっか! ね?」
 しかし、名字が手を伸ばしてきて、俺は身を翻してあわてて逃げた。女に抱かれるなんてまっぴらだ。いや、男も嫌だけどな。彼女は「あ、ワンちゃーん!」と追いかけてくる。くそっ、なんで追いかけてくるんだよ! 人間の姿になれねえじゃねえか!
 舌を打ちつけるものの、俺は足に自信がある。ましてや相手はピッチャーだ。負けるわけがねえ。上手く撒いた俺は、全身に力を込めた。
 やがて、走ってきた名字が俺と鉢合う。俺を見た途端、あの鉄壁ポーカーフェイスを貼り付けやがったから、俺は胸の中で大いに笑ってやった。お前の緩みきった顔なら、俺の記憶にしっかり入ってるってな。
「どうした? 随分急いでいるじゃねえか」
「は、灰塚……いや、なんでもない。気にするな」
 唇を噛み締め、必死に己を律する名字は近年稀に見るほど俺のツボだった。その場で笑い転げたいのを我慢し、彼女から顔を逸らした。今にも吹き出してしまいそうだ。
 だがおそらく、気づかれたあかつきには俺がまず犠牲になるだろう。俺は自分のためだと笑いを押し殺した。「ところで、こんなところで油を売っている暇はないだろう。練習に戻るぞ」と背を向けた名字。どの口が言ってんだ。おっかねえ女だと思っていた名字に、俺は二度とこのイメージを覚えないのだろう。

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