青春プレイボール!

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 猪狩くんから離れて、どれくらい走ったのでしょう。夏の甲子園決勝を戦い抜いた選手のごつごつした手を取って、逃避行のごとく甲子園球場を後にする。彼を攫った私は無我夢中で東西南北どの方向を目指しているのかもわかりません。
 やがて浜風と磯香が囁いてきて、ひたむきに猪であり続けていた足を止めた。すると、魔法が解けたかのように今度は鉄の文鎮となって私の身体を沈めようと企てたの。走り続けた代償を身に背負ったことで、ようやく友沢くんと二人きりになれた。
 この時をずっと待っていた、友沢くんに会える時を。遠く離れていても、ずっと私の心を占めていた人。彼に会いたくて、でも怖くなって、それでも好きな気持ちが強くって。
結局は彼が本当に好きなのです、大好きなのです。胸に落ち着いた答えを握りしめていると、私の手がやっと思い出したかとそこにある人の腕に気づかせた。
「ご、ごめんなさい!」あわてて離します。
「いや、それより大丈夫か?」
「えっ」
「汗、かいているから」
 それなのにこの人は、私の髪を優しげな手で掻き分けて額を風に晒すのですから、本当に意地が悪い。そんなことをされてしまえば、穏やかに流れていたはずの血潮が勢いづいてしまう。
 目を合わせれば、何ヶ月ぶりでしょうか穏やかな緑瞳が見えて、彼と過ごした日々が身体中の朱に引けを取らず流れていく。それはいつしか彼の目にも映ったようだ。
「顔、赤いな」
「……大丈夫、ありがとう」
「それならいい」
 彼は私の髪に手を乗せてきて、私はされるがままで。こうされることもしばらくはないことだった。
「友沢くん、変わらないね」
「なにが」彼の手が止まる。
「優しいところ」
「……誰かと勘違いしているんじゃないか」
「それはありません」
 蛇島さんに言われたこと、雅に言われたこと、神高くんに言われたこと、猪狩くんに言われたこと。他の人が私を落ち込ませたり、背中を押してきた。でも、彼を見て思う。私、この人のことが好き。純粋に、混じり気なく、そう思う。自分にも他人にも厳しくて、ひたむきな友沢くんに、優しい友沢くんに、野球をしている友沢くんに、恋をしている。
「私がずっと会いたかった、友沢くんです」
 都会にひとりで来て、みずきに出会って。初めて顔を合わせた時、ちょっぴり喧嘩腰で。怖そうな人だと思ったこともあったっけ。
 でも、それを拭い去ってくれたのは野球で。野球をしている友沢くんから目が離せなくて、気づけば、そう、気づいたら、大切な人になっていた。
「俺も、ずっと東野に会いたいと思っていたよ」
「うん……夢じゃ、ないよね」
「夢だったら困る」
「そう、だね」
 友沢くん、みずきが好きなんじゃないかなってずっと思っていた。でも、私を選んでくれて、一緒にいられるようになって。私しか知らない友沢くんもたくさん見てきたつもり。
 野球をしながらアルバイトもしている強靭なところ、それは大切な人が源になっている家族想いなところ、どちらも手を抜かない頑張り屋なところ、自分で道を開こうとする努力家なところ、そのくせアイドルが好きな可愛いところ。そして、ああ、そうだ。弱いところを見せたがらない、強がりなところもあるの。
 私がパワフル高校から離れる直前、彼の誰にも見せまいとしていた仮面の隙間から覗いてしまったこと、それが友沢くんの本当の姿だった。彼は何でもひとりでやろうとする、背負おうとする。でも、強いわけじゃないの。強がっているだけなの。
 私は、どうして彼に会いに来たの? 雅が背中を押してくれたから? 違う、やり残したことがあったから、それだけじゃない。パワフル高校に置き去りにした思い出が囁く。友沢くんにとって、どんな存在になりたいの?
「友沢くん」彼に腕を広げた。
「……東野」
「決勝、おつかれさま」
 彼の顔がみるみるうちに揺れていく。昂る感情がもう限界だと仮面の下で騒いでいるのは一目瞭然だった。けれど、友沢くんは最後の抵抗とばかりに唇を噛み締めている。
 私は、あの時の彼を重ねていた。遅すぎただけ。でも、今は手が伸ばせる。
「おいで」
 友沢くんの顔が悔しそうに歪んだ。私は正反対に微笑む。すると、彼はどこにも行ったことのない動物のようにゆっくりと、一歩づつ私との距離をなくして。そして、彼よりずっと小さい私にしがみついた。
太くて頼れる腕が震えていて。私は広く儚い背中に、ずっと何も支えられなかった腕を回す。手が繋がって、大きな彼を包み込むことができた。やっと。
「く、そっ」
「うん」
「あと一勝だったのに……! あとひとつで、全国制覇、だったのに……」
「……うん」
「アイツらと野球ができる、最後のチャンスだった、なのに……! 俺がもっと、もっと……」
 この人は、一体どれほどのものを一人きりで背負っていたのだろう。それがちょっとだけでもわかったような気がする。野球だけじゃない。すべてのことだ、彼にのしかかるすべてのこと、彼は人一倍たくさん背負っている。
 頼りないけれど、私にも乗せていいんだよ。払うように背中をなでると、彼の腕がさらに力強くなって。やっぱり、彼にしてあげられることはこういうことだと確信したの。そして、今ならそれができるって。
「友沢くんが打ってるところ、見てたよ。もちろん、みんなのことも」
「でも、負けたんだ……俺たちみんな、全力で戦った。それでも、神高たちの方が強かった」
「……悔しいね、負けるのって」
「悔しい……!」
 私も同じ気持ちだよ。大丈夫、言いたいことを全てぶつけてもいいんだよ。口にするよりまず身体が動いて、思い切り彼を抱きしめた。これ以上の強さはないぞ、と。
「頑張ったね、私、ちゃんと見てたよ。ずっと、見てたよ。友沢くんのこと」
「俺はっ、まだ……俺がもっと」
 それでも、まだ彼は白を切るようだった。もっと背負えるとでも言いたげに。
「……大好き、だよ」
 だから、止めたかった。分けてほしかった。どうしたらいいのかはわからずとも、自然に口から溢れたものはきっと私が一番彼に伝えたいこと。それを信じてみようと背伸びをして見上げた。
 彼の腕の中で、小さな滴が降ってきた。透き通った綺麗な雨だ、本当に悔しいと心から流れた雨だ。友沢くんはいよいよ、私という小さな人間に自身の端くれを傾けてくれたのです。
 パワフル高校に別れを告げた日、みずきとの隔たりで目を覆っていたから見えなかった彼の涙。それは、私が彼を好きだというごく当たり前の事実を昇華させた。一度は蛇島さんに揺すられた、猪狩くんや神高くんが絆創膏を貼ってくれた恋心。友沢くんに想われなきゃ、私も想えないなんて変な話よね。私は友沢くんを支えたいって思ったのだから、そうすればいい。私が、想えばいい。
 涙で濡れた瞳には曲線だらけの私がいた。たくさん泣いていいよ、そんな悲しい顔をしないで。相反するふたつの願いが絡み合えずにいて、上手に笑えていないかもしれない。それでも、友沢くんが好きだよ。その気持ちだけは私の目から、眉根から鼻から口から、隠しきれずに表れてしまうのです。

 友沢くんと見つめ合い、やがて彼は私の顔を優しく拐う。長い指でいとも簡単に私は息を飲ませられた。恍惚とした物腰柔らかな瞳、涙が美しい絵画を仕上げるようで、彼を一層切なく写生したから。
「俺は、お前が大切だ。好きだとかそんなものじゃ片付けられない」
 甘くて、切なくて、でも大好きで、それ以上はどうなってしまうのでしょう。私のこの気持ちと、彼とは同じだと思っていいのでしょうか。誰かに聞きたくなるくらいに曖昧で手放したくない。そう思うと、友沢くんに惹かれ顔が近づいて。恥ずかしいはずなのに目が逸らせない。けれど、それは友沢くんも同じだ。彼の指が私の顎に添えられて、引き寄せられて。私は静かに目を閉じた。何も見えない暗の中で流れてきた音は規則を忘れた慌ただしい心音だった。言うまでもなく、誰よりも一番近くにいる人のもの。伝染するのは私の鼓動だけれど、不思議と気持ちは穏やかに身体の中を漂っている。
 抜きん出て熱い温度が唇に落ちて来た。今まで友沢くんに伝えられた甘い台詞のどれもこれも、音もなく身を寄せ合うことにかないっこなくて消えていく。代わりに私をまるまる占領するのは、一点に注がれた彼の想いすべて。普段は一文字に結ばれているのに、おそるおそる咀嚼でもしようかと震えている友沢くんが誰よりも大切で、愛おしくて、支えてあげたいと自ら手を重ねて願う人なのだと、わざわざ口を開くまでもなく流れ込んでくるの。言葉なんてものは必要ない、すべて吸い込んでしまえとばかりに声すら出せない。私にできることといえば、この優しいくちづけに絆されることだけ。瞼で閉じられた真っ暗な世界、それなのに確かに色があると思った。
 水面の花弁が揺られたかのように、友沢くんは私から静かに離れた。ようやく目にしたどこか新しい風景は眩しくて友沢くんが白むほどだ。
「ハァッ」彼の頬はひどく赤らんでいた。
「やっと、できた」
「うん……だね」
「あの時からずっと、お前にこうしたいと思っていたよ」
 私は口元に手を当てる。まだ温かい、噛み締めてしまうのは大切な人の声だからだろうか。一字一句逃さずに飲み込んでしまえたらと思うのに。
 裏腹に、彼は赤い頬ながらもそのことが一場春夢に揺すられたと静かに表情を曇らせるのです。
「だが、俺はやっぱりこの道しかない。いつもいつも、遅すぎるのだろうな」
「それで、いいよ」
「しかし……」
「いいの、ね」
 しかし、私の願い一番星はどんなことがあっても輝きを失わない自信がある。だから、友沢くんはそのままでいいの。届けたくても届けきれない私が、ほんの一欠片でもいいから、と彼を見つめるだけだ。
 この願いが祭りの提灯のような独りよがりではないと切に想ってきた私は、はたして友沢くんの背中を包むなり押すなりできたのでしょうか。彼が私の手を握って。それは、バットほどたくましくはない人肌に身を委ねた男の人を、儚げもなく色濃く描いたものでした。
「俺に、こんなことを言う権利はないかもしれないが」
「うん」
「東野、そばにいてくれ。これからも」
「うん、いさせて」
 これまでのように、この長い道をひたすらにまっすぐと走っていくあなたのそばにいたい。目の前のこの人に、すべて渡してあげたい。ずっとずっと注いできたものは、私の中のかけがえのない一瞬でした。けれど、後悔なんてするでしょうか。むしろ、この人で良かったと心から思うのです。
 友沢くんが何よりも望むものは決して私のような小さな存在ではないでしょう。けれど、どんなに大きな人も小さなつっかえ棒がなければ倒れてしまいます。彼に引き寄せられて、腕を回した大きな身体はほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ軽くなっていて。私の願い続けた青い春がやっと、日陰から出てこられた。そんな心地になるのです。
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