中編

□神に宿る赤い絵筆 下
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 私は部室に戻ると描き途中であった彼の前に腰を下ろしました。絡繰人形のピノキオとでも題したくなる没作です。佇む彼は手首足首関節すべてに糸が垂らされているようで、むしろ瞳の開閉すら天からの蜘蛛の糸なしでは許されない木彫り人形でした。私は途端に顔へ熱が集まるのを感じます。恥ずかしい、こんなものを神高くん本人に鼻高々と見せつけていたのでしょうか。勘違いも行き過ぎる。染まる頬を隠しきれないのであれば、原因を消し去ってしまえと私はヒトの成り損ないを破り捨てました。ビリッ! 人の身体はそのような音を立てて壊れやしません。このような絵にかける情などスプーンひとさじもなく、愛着やらを回収したところで私はようやく彼を描こうと決心できたのです。ようし、描くぞ。小さな子供のように両手を突き上げ、筆に高々とした景色を見せてやります。何年ぶりのことでしょうか、筆はいつしか私の目線のキャンバスしか見ていなかったらしいのです。私はいやに鼓動が早かったような気がします。
 真っ白、いいえ、真っ新なキャンバスに初めてうった点は、使い古された筆の穂と同じ形をしていました。あちらこちらへ歩こうとする足を学級委員のような前骨が必死に停めています。私はその数センチの点がいやに愛らしく思えたのです。この粒を重ねて、絵を描いているのだと改めて気づいたのです。高揚しました。私は、筆を持つ右手を左手で制します。描きたい、描きたい。疼く右手からなにかを放ちそうな勢いでした。私は、筆が自ら動くのを感じながら、そのまま逞しい線をかっ引きます。なんだ、なんでしょう。この汚い線は。何も考えていなくて、汚くて、それでいて気持ちのいい。不思議な線です。初めて筆に触れる赤子のような線、しかし、とても楽しいのです。私はいてもたってもいられず、もう一本の線を引くのです。キャンバスを分断する線は、前回の人形を描いた時であれば即座に失敗作の烙印となるでしょう。ですが、ここでは違う。これでいいのだとどこで種を蒔かれたのかわからない芽がすでに出ていました。
 夢中に、夢中になって描きました。だから、パレットには居場所などあってないのだと様々な色が混ざり合って黒黒としています。これまでであれば、赤の独占地だったはずですが影も形もありません。いいのです。いいのですよ。だって、彼はこんな色だったのですから。私は額から流れる汗が首に伝うのも忘れて描き続けました。これまで以上に酷使しているはずの筆はなぜかここぞとばかりに輝きを放っています。いいぞ、お前。そんなキミが大好きなんだ! モノを大切に扱わない、なんとも自己中心的な愛だと思いました。童心に返ったように、自分の心のまま興味の惹かれる方に歩いていく。本能しかない私を誰も躾けることはできないのです。
「……それだよ」
 ですから、私は気づけませんでした。美術室の扉が開いたこと、そして彼が入ってきたこと、最後に、彼がこちらへ足を向けて来たこと。見下ろす彼の赤い瞳と声で、ようやく筆と私は大人しくなることができました。
「神高くん……」
「名字さん、それさ。僕の姿はそうあるべきなんだ」
「これ、ですか」
「そうだよ。そして、僕を描くキミも然り、だ」
 神高くんはキャンバスを指差しました。まだ、完成には程遠い荒くれ者ですが、確固たる彼の輪郭は今にもこちらに右腕を振り下ろしてきそうな勢いでした。赤い背景は夕日のそれと同じですが、幾分表情が異なります。彼はまだ未完成の幼子の頭を撫でました。赤い絵の具が彼の指に滲みます。
「うん、楽しそうだ」
 神高くんが微笑む様はこんなにも美しいのに、私は息を飲むようなマネはしません。
「楽しい、な」
「そうだね、楽しそうだ」
「神高くんは、楽しい?」
「ああ、楽しいよ。楽しいから、続けられるんだ」
「……うん」私は筆をパレットに置きました。
「美しいだけでは、いつか折られてしまうだろう」
「忘れてたのかな」
「なに、思い出せばいいだけの話さ」
「……そっか」
 彼が椅子に座る私の横に腰を下ろします。赤い指を顎に当てて、もう一人の神高くんをジッと凝視するのです。私といえば、まだ年相応の理性が戻ってきていないのか彼の横顔を前に阿呆面を晒していました。美しいな、素直に湧き上がってきた陳腐な感想を踏み潰します。私の脳裏に焼きつくのは、まだまだあの日の太陽を背にした彼なのです。夕日のそれは今頃ゴミ箱にでも眠っていることでしょう。
 彼が立ち上がります。部活動も後片付けを始める夕暮れ時、彼はもう行くらしいのです。窓から差す夕の手が彼にまだ縋っていたいのだと赤で包みますが、そんなもので神高くんを野球から遠ざけることはできません。彼は野球があって、彼なのですから。
「神高くん」
「なんだい」
「ありがとう」
 去りゆく背中に届くかどうか、確信もなく呟けば彼は片手を上げて応えてくれた。さらには、それも一時のこと。すぐさま美術室を出てグラウンドへと駆けて行ってくださったというのだから、彼への感謝は伝書鳩のように無事落とすこともなく届いたのです。良かった、本当に。
 赤に塗れた筆が私を呼びます。この子もどうやら彼に感謝しているみたい。早く描こうよと私に止まらぬ血潮をアピールしてきます。テラテラとした鮮やかな色に私は手に取る以外の選択肢を消すのです。そして、残った彼に赤いペンで大きなマルをつけてやるのです。
 さあ、楽しい時間はまだまだ終わらない。私は筆とダンスを踊るように、楽しむのよ。これからも、この先も。私が恋をしたのはこの瞬間だった。そう思い出させてくれたのは神高くんと野球です。彼らには恩返し−−いいえ、私たちにできることはこれしかありませんし、一番の恩返しです、よね。絵の具をたっぷり含んだ絵筆で触れると、キャンバスが堪えきれずに滲みました。その染みすら、私たちのダンスなのです。見て、こんなに輝いている私たちを。手の震えが筆に伝わることも、瞬きを忘れた乾いた瞳も、すべてが心地いい。私の手はもう筆と同じ色。境目など見えません。でも、こうして筆とひとつになれたこと、それは随分と久しいことだったと思うのです。

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