中編

□目論見の果て
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「轟くん、どうしよう……」
 名字が不安そうに俺を見上げた。どうしたもこうしたもあるか。彼女と出かけていただけだというのに、いつからこうなっちまった。



 学校が休みだというから、名字と過ごそうと考えていた。
 彼女、名字と付き合いを始めてからしばらく経つ。だが、俺は彼女との関係に勇み足で足踏みをしていた。
 彼女は保健室の助手らしく静謐と清潔でできた清らかな女だった。それゆえ、俺が彼女にのみもつ桃色の薄汚れた欲が下界の民の嘔吐物のように穢らわしいのだ。
 名字に汚ねえ手を出すんじゃねえ。だがしかし、触りてえ。彼女に見せるものかと虚勢と見栄とで塗り固めた脆い無欲のプライドは、すでに決壊寸前であった。
 そこで、俺の計画はこうだ。本日、名字をこの腕に抱きとめる。「轟くん……」彼女の甘たるいはにかみが俺の胸に収まるなど、致死量に近い幸福を味わうことと同義だ。俺は死に急いでいた。
 しかし、俺の計画がことごとく崩れ去ったのは、彼女とまさに出会おうとする話の冒頭部。「行きてえところはあるか?」「服、似合ってんな」「逸れるから手、出せ」言いたいことはひとつも口にできぬまま、その時はやってきた。
 目の前で彼女が引ったくりの餌食となったのだ。小さな悲鳴を漏らした彼女。それより速く、俺はその犯人を追いかけた。名字が手に持っていたバッグは、彼女が持つからこそバッグたる尊厳を保つのである。貴様が持ったところで面白みも愛らしさの欠片もねえ。
 犯人は素早く、小柄であった。手慣れなのか、この街の構造を理解しており、路地やら建物間を縫いながら俺を翻弄した。ただし、奴にとって計算外であったろうことがある。俺もまた、この街に手馴れていたということ。
 やがて、彼女のバッグを取り返し、来た道を戻る。さて、名字はどこにいるのか。現場から動いていなければいいが。
 そう思ったが、彼女は俺たちの後を追っていたらしいのだ。壁と壁に阻まれた一人分しか余裕のない細通りに、彼女はいた。
「ありがとう!」
「これくらい普通だろ」
 そして、バッグはバッグたる尊厳を取り戻す。
「よかったあ。戻ってこなかったらどうしようかと思っちゃった」
「俺がいてそれはねえよ」
「ふふ、ありがとう。さすがヒーロー。さ、戻ろうか」
「おう」
 こうして、事態は落着したかと思われた。
 しかし、再び彼女の小さな悲鳴が聞こえた。彼女は足元につまづいたらしい。ヒーローである俺は無論、見て見ぬフリなどできず、彼女の腕を掴んで引き寄せたのだ。こいつだけは守らなきゃならねえ! 私情の入ったヒーローはなりふり構っていられなかった。

 そして、話は冒頭に戻るのだ。彼女は無事倒れこむことがなかったにしろ、戦況は大きく変わっていた。私情の入ったヒーローによるなりふり構わない行動の結果がこれだ。
 彼女の背後には壁があった。ここまでは特に問題らしい問題は見当たらない。しかし、俺が彼女を抱き寄せたせいで、彼女を壁から逃すまいと両手で杭を打ってしまったのだ。
 名字の頭のつむじが見え、なんとも可愛らしい気持ちになった。つむじという言葉に愛嬌を覚えた。さらに、彼女の髪はその一点から垂れていると思うと、今度は愛おしく感じた。
「ご、ごめんね轟くん!」
 そして、彼女が顔を上げる。そこでようやく、つむじなんぞに見惚れた呑気な己に気づいたのだ。俺は、名字名前をここまでの至近距離で見つめたことがない。
 名字の瞳はテラテラと輝いていた。俺は直視できずに、思わず目を逸らす。しかし、続いて鼻がいらぬものを拾ってきた。彼女の香りだ。どう表現すべきかわからないが、清潔な香りがした。石鹸でも食べる生活をしているのだろうか。
 いけねえ、このままじゃ石鹸に鼻がやられちまう。俺は咄嗟に顔を上へ向けた。
「と、轟くん!? どうしたの、痛いところでもあるの!?」
「違ェ……ッ!」しかし、愚策であった。
「ごめんね。私が転びそうになったから、こんなことになっちゃって……」
「違ェって言ってんだろ……」
 元来、彼女の声を近距離で聞いたことがなかったのだ。耳元近くで鳴る好意を寄せる女の声に、俺は身体の芯が痺れた。上鳴の電撃なんてもんじゃねえ。彼女はノーモーションで俺の動きを封じた。
「どうしよう、轟くん……」
「どうしたもこうしたもねえよ」
「ううん……」
「…………」
「……あっ、そうだ」
「どうした?」
「ちょっと止まっててね」
「……おう」
 さらに、彼女は俺の動きを封じるだけでは飽き足らず、自ら俺との距離をさらに縮めたのだ。これ以上どうしようってんだ! 姿は見えねえが、俺の首には彼女の髪が触れている。身体には彼女の体温を感じた。
 名字はなにしてんだ!? 俺に密着しているのか!?「うーん、狭いなあ。スペースが足りない……」壁に張り付いた手を彼女の背中に回していいものかと不埒な考えが浮かんでは握りつぶした。
 俺は自分の手に氷を纏わせ、壁に貼り付けた。汚ねえ欲塗れの手で名字に触れんな。自分への戒めであった。
 彼女が壁に背を預けた。これでまた振り出しに戻ったのだ。
「ダメだった。ごめんね」
「……いや」
 名字は沈黙に身を委ねてから言葉を発した。
「でも、このままでもいいかも」
「は?」
 それがあまりにも理解しがたい内容だったからか、俺は思わず視線を彼女に合わせてしまった。それが身を滅ぼすことになろうとも知らずに。
 潤んだような、熱いような、情緒的で乙女しい目をしている彼女がそこにはいた。俺は言わずもがな釘付けになる。
「轟くんと一緒だと、ドキドキするから……なんてね」
 ニコリと笑う彼女。身体の中から爆発していく衝動が確かに騒いだ。馬鹿野郎! どこでんなモン覚えてくんだよ! それより落ち着け、俺! 意図せず、右手から壁伝いに氷が張った。「ひゃっ、つ、めたい……っ」「妙な声出すんじゃねえ!」「だ、だって轟くんが……っ」「……ああっ、クソッ!」
 そうして、彼女を左手で抱きしめたのだ。見事に不可抗力だ。「きゃっ!?」言ったそばからコイツは乙女しく甘い悲鳴をあげた。口の聞き方には気をつけて欲しいもんだ。
 俺は彼女を批難しながらも、腕一本を離そうとはしなかった。むしろ、腕の力は強くなるばかりだ。
 自分の胸に可愛らしいつむじがある。俺は再び目を逸らした。
「……これでいいだろッ」
「あったかい……」
「変なマネすんなよ」
「してません。ありがとう、轟くん」
「黙っとけ」
「はあい」
 俺は上を向いたまま彼女を抱きしめていた。
 そういえば、今日は彼女をこの腕に閉じ込めようかと密かに目論んでいた。現状は目論見の中とは、雰囲気も場所も何もかも異なるが、触れている彼女の体温だけは同じだろう。
 今回はこれでいいかと妥協したのだ。

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