中編

□void eternity 8
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 しかし、彼は私を押し返した。

「ダメだっ、ダメだダメだ! オレは……軍人なんだッ!」

 軍人!? その言葉に目を見開いた。
 軍人というのは、私が日本のテレビで見たものものしい面持ちに太い眉とギョロギョロとした瞳で、一心不乱に行進をしているつまらない人たちのことだ。
 そういう人たちは、決まって無機質な戦艦や特攻機と共に自身の命を浪費する。

 テレビで見た軍人とアルヴィンの顔が重なった。瞳の奥に静かな闘志が見える。生きることを諦めた、この世でもっとも虚しい闘志が。
 そんなもの、もっていたって疫病神にしかなり得ない。生きることを諦めてまで、誰かの命を奪おうとするなんて間違っている。

「軍人だなんて……危険だよ! どうして!?」
「どうしてだって? オレたちを裏切ったのはオマエたちジャパニーズじゃないか!」
「違うよ! アメリカ人とか、日本人とか、そんなことどうだっていいじゃない! どうして……。どうして、私を見てくれないの!?」

 私が騒ぎ立てた瞬間、アルヴィン青くなった。そして、私の身体を持ち上げ、砂浜の物陰に投げ捨てた。

「ヘイ、アルヴィン!」
 男性の声がした。私は咄嗟に鼻と口を手で押さえて息を殺した。

「はい!」
「こっちから声が聞こえたような気がしたんだが、お前だったか」
「はい。この辺りは誰もいないようです」

 金属のブーツから鳴る重苦しい足音。
 意中だったアルヴィンに会えたことで気が付かなかったが、アルヴィンも男性も頭の先からつま先まで重苦しい格好をしていた。まるで、軍人のような。
 私は苦しくなった。口と鼻を押さえているからじゃない。もっと、口と鼻の奥が苦しいんだ。

「ご苦労さん。わかっているだろうけどな、ジャパニーズがいたらとっ捕まえるんだぜ」
「イエス、もちろんです」
「男なら労働力にできるし、女なら遊べるからな」
「はい」
「よし、じゃあこの辺りは任せた。またあとでな」

 カツカツとものものしい音を立てて、男性は離れていった。
 私は口と鼻を押さえたまま、震えていた。
 元々、勉強することはきらいじゃない。だから、世界情勢もニュースで見ていたつもりだった。
 でも、アメリカ現地の日本人がそんなことをされているなんて、誰もひとことも教えてくれなかった。そんな、恐ろしいことをされているなんて……!
 金属靴の音が無くなっても私は口と鼻を押さえて呼吸の仕方を忘れたままでいた。もしかしたら、呼吸をしたら殺されると本能で感じ取ったのかもしれない。
 アルヴィンが私に歩み寄り、息を止めていた腕を払った。
「はっ」苦しくてむせた。
「……聞いただろ? オレたちはジャパニーズを目の敵にしている。それはナマエ……オマエも例外じゃないぜ」

 聞いた、聞いたよ。今でも震えが止まらないよ。日本人というだけで捕まって、わけもわからないうちに乱暴に扱われた人が確かにいるんだ。
 信じたくない。でも、あのアメリカ軍人が冗談の顔色も見せずに言ったのだから、嘘だ、嘘だと喚くしかできない。
 これは現実なんだ。

 怖い、怖い。でもね、それでもね、

「それでも……私はアルヴィンが好きだよ! あの時からずっと……スクールで過ごしたことは全部私の宝物で……。日本に戻ってもアルヴィンのことばかり考えてて……!」
「けど、ジャパニーズはオレたちの敵で……ッ」
「アルヴィン!」
 私は決死の思いで彼の肩を掴んだ。
「私は敵なの? アルヴィンの敵なの……? この海岸で好きだって言ってくれたこと、私は覚えているよ。アルヴィンが大好きだもん。あの時も、今も」
「……でも、オレは軍人なんだ……ッ」

 アルヴィンは苦い顔をして俯いた。
 どうして? どうして伝わってくれないのだろう。私の中で滾るアルヴィンへの恋慕は、ライオンがシマウマを眺める気持ちと変わらないほど猟奇的で渇望するものだというのに。
 彼は頑なに私をナマエとして見てはくれなかった。ジャパニーズと呪文のように繰り返した。彼の困惑と憎悪の入り混じった瞳に、醜く顔を歪めた黒髪の女がいる。彼のためなら、こんな黒髪も黒目もくれてやりたい。

 それに。

「アルヴィン、さっきは守ってくれたんだよね」

 彼に笑いかけると、触れている屈強な肩が跳ねた。

「本当に私を殺そうとしているなら、さっきの軍人さんに引き渡していたはず。でも、そうしなかったのは……守ってくれたんでしょう?」

 アルヴィンはわかりやすく目を逸らした。
 彼にも私との思い出がほんの一欠片でも残っていると、そう都合よく解釈してもいい、よね。そうじゃなければ、きっと私は今頃亡骸になって海の藻屑になっているはずだから。

「アルヴィン、私は国を敵に回しても……」
 ふと、あのナスのような顔の形にモヤシのような白ひげを携えたご老人を思い出した。
「国だけじゃない。神様だって敵に回しても、アルヴィンが好き」
「ナマエ、自分で何を口にしているか、わかっているのか?」
「わかってる」

 アルヴィンと見つめ合う。彼の青々とした目には固く決意した女の顔が映っている。
 お願い。伝わって。そんな祈りで私は手を握り合わせた。私の知る神様なんかは、こんな願いを叶えてくれるほど善良で優しくはないことを知っているのに。

 ふわっとアルヴィンの香りがした。
 そう思ったら、私は彼の腕の中にいたんだ。金髪が目の前に見えて、私は泣きたくなった。

「ナマエ……ッ」

 それは、ずっと、ずうっと求めていた温もりだった。
 アルヴィンの身体は震えている。震えていたっていい。私だって震えている。彼の軍服にかかっている固い金属に押し付けられることすら、今は幸せでならない。
 幸せで幸せで、涙があふれた。

「……ナマエ、オレ、やっぱりキミが好きだ……ッ! キミがジャパンに帰っても、キミを忘れられなかった……!」
 私の肩はさらに強く抱かれた。
「ナマエがいなくなってから、ジャパニーズはオレたちを目の敵にしていたことを知ったんだ。ナマエもそうなんだと思って……オレ、軍人になることを決めた」
「そう、だったんだ……」
「ナマエに裏切られたと思ってた……。悲しくてさ、それを忘れるためにジャパニーズを憎もうとしたんだ」
「……ごめんなさい。何も言わずに帰国して」
「いい、何も言わなくていいよ、ナマエ……。ごめん、オレが、オレが弱かったんだ」
「ううん、アルヴィンがいるだけでいい……」

 やっと、やっとアルヴィンと気持ちが通じ合えた。
 アメリカから日本に帰ったとき、彼を思わない日はなかった。そう言えば、この筆舌に尽くしがたい幸福極まる感情の片鱗くらいは伝わるでしょうか。嬉しくて、幸せで、何もかもがまばゆく見える感覚。私は、この気持ちに名前を付けられない。名前を付けてしまえば、とても陳腐に感じてしまう。
 ここは、地獄よりもよっぽど危険で恐ろしい場所だ。私めなんて、アメリカ人に見つかれば四肢を引きちぎられてもおかしくはない。
 でも、今は。
 今は、この穏やかな気持ちと誰よりも欲しかった温もりを離したくない私は、ひっしと彼にしがみついた。

「もう迷わないよ。何があってもナマエを離さない。オレが守るからな」
「……ありがとう」頬が染まった。
「ナマエが国を捨てるっていうんだ。そこまで想っててくれるなら……オレも軍人を抜けるよ。アメリカも捨てる」

 涙が止まらない。
 しかし、視界が潤んでいても、大好きな、澄んだ海のような色をした瞳が見えた。いつ見ても、綺麗で私は泣きながら見惚れてしまった。
 私は、アルヴィンと地獄で生きることを決めたんだ。

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